これはずっと前から書かなきゃいけないと思っていた。このブログのサイドバーを見るたびにそのことを思い出させられる。開発ブログはもともとKS開発の半オフィシャルな開発記録のつもりだった。でもここではブログ開設以後の出来事しか書かれていない。読み返してみれば、多くの記事はそんなに面白くないし、公式サイトの小史はちょっと言葉足らずだ。そんなわけで、プロジェクトかたわ少女の長い歴史をここに:
KSの種がまかれたのはもう10年近く前、2000年12月に開催されたコミケット61でのことだった。同人サークル「絶対少女」の絵描きであるRAITA氏は、風の谷のナウシカの同人誌「Schuppen Harnische」を発行した。腕のない戦士、クシャナ王女を中心とした作品だった。その中のおまけページで、RAITA氏は名づけてかたわ少女という、障害を持つ女子をヒロインとした恋愛シミュレーションゲームのコンセプトアートを描いた。彼は5人のメインヒロインの絵を描き、余白には簡単な説明を記した。注目すべきことに、そのページに続いてRAITA氏の着想を描いたページがもう2ページあった。なぜこの2ページが忘れられ、KSが生き延びたのか。時と偶然がその答えとなる。
時は飛んで6年後。西側のファンがKSのおまけページを翻訳・彩色する。(しかし他の2ページには手を出さなかった。)この人物は雪崩を引き起こす一石を投じ、このプロジェクトの引き金をひいただけにとどまらなかった。知らず知らずのうちにゲームの外観にもっとも大きな影響を与える人物のひとりとなり、制服の彩色・ヒロインたちの髪や瞳の色を単独で決定することになった。この出来事がいつ起きたのかははっきりしないが、この同人誌のページは20007年1月4日に4chanの/a/掲示板に投稿された。思い返せば、その次に起こることはプロジェクトKSが今の姿に至るまでの一連の稀有な出来事の中でも、もっとも不可解な1件だ。確たる理由もなく、このコンセプトページを機に/a/掲示板全体が祭り状態になった。これがゲーム化されたらどうなるかというアイディア、そして実際にこのゲームを作ろうという呼びかけでスレッドが埋め尽くされた。KS関連のスレが数本立ち、そして埋まっていった。やがてモデレータがそのひとつを『固定(sticky)』する。4chanでは珍しいことだ。この時点で名無したちの勢いはもはや止めようがなく、彼らはRAITA氏の描いたたった一枚のおまけページをもとに、共同でこのゲームを作ろうという計画を進めることを決定した。ここでPと呼ぶ人物が開発掲示板を立ち上げる。4chanはどんな投稿もそのうち流れてしまうため、開発拠点としては使いづらかった。続く数週間のあいだ、この掲示板はクリエイティビティをはぐくむ場となった。まったく荒削りな生のアイディアが生まれ、互いに競い合い、発展し、そして死んでいった。P を含むもっともアクティブなユーザーたちは状況をまとめようとしたが、結果はさまざまだった。ほとんどのヒロインたちに、いくらかの名前や性格が肉付けされた。設定も少しだけ検討され、やがてとても平凡な日本の高校に落ち着いた。障害を持つ生徒の学校、という点を除けば。
毎度のごとく、大多数の名無したちの関心は薄れて消えていった。アクティブなユーザーたちは作業の進め方を決めようとしていた。コアグループが形成され、cabalが事実上のリーダーとなった。プロジェクトに形を与えることで、多少なりとも作業を進められるようにするのが狙いだった。彼らは掲示板の読者を物色して、ふさわしい技量のある協力者を取り込もうとした。しかし労力の甲斐なく、あまり事態は前に進まなかった。KSがオープンな自由恋愛的コミュニティプロジェクトとして、誰でも参加できるものであってほしいと願う人と、最初から最後までゲームを作りきるクローズドな開発者グループ的スタイルを求める人の間で議論が起きた。やがて内紛とエゴの衝突が劇的な事態をまねき、Pはプロジェクトを去る。プロジェクトの指揮はcpl_crudと、ここではTと呼ぶ人物の手にゆだねられた。
この時点(2007年4月)で、KSの協力者やユーザー集団はほぼ壊滅していた。進捗は滞り、常連たちは幻滅し、移り気な名無したちは興味を失っていた。プロジェクトそのものが死の危機に瀕していた。Crudは一からやり直すことを決意し、新しいサーバー上に開発掲示板を立てなおす。この掲示板は文字通りまっさらから立ち上げられ、わずかに残った開発者が移住していった。プロジェクトKS開始から4ヶ月間にわたって収集し、煮詰めてきたアイディアだけを抱えて。彼らは役割分担を決め、最終的にCrudが華子ルート、A22が静音ルート、ここではSとする人物がリリールート、そしてHivemindが主編集者となった。KはキャラCGを描き、Fは背景作画および作画ディレクターとなった。Tは『ディレクター』となり、私たちが採用したVNエンジンであるRen'Pyの使い方を勉強することになる。休止期間を経て私も6月にプロジェクトに復帰し、琳ルートの担当ライターとなった。後日Hivemindは編集と平行して笑美ルートを担当することに同意した。かくして、Four Leaf Studiosの初期メンバーが出揃った。そして一種のジョークとして、またプロジェクトの起源を示すものとして、この名前を名乗ることにした。とはいえ、この時点ではとうていスタジオなどと呼べる体制ではなかった。VN作成の経験など誰もなかったし、この取り組みに対する意識はよく言ってもお笑いものだった。
07年の夏は基礎知識の習得とゲーム企画に終始した。この早い段階にあってさえ、プロジェクトの目標はフルサイズのビジュアルノベルの作成だった。控えめにいっても正気とは思えない野望だった。何をどうすれば、丸っきりの初心者が最初からフルサイズのVNを作ろうなんて考えに至れるのか。今でも正直言ってわからない。しかし結局その方向に私たちは進んでいった。あいにく経験のなさが元で、とても多くのおろかな決断がこの時期になされてしまった。これは後にも書くが、莫大な負担を私たちに強いることになる。適切な計画の大切さを無視したために(不当なのは承知で、これはcrudのせいだと思っている。今日に至るまでそれがクリエイターとしての彼の最大の特徴のひとつだからだ)開発チームは半分目隠ししたような状態で作業を始める。テキストや絵をこね回し、Ren'Pyにまとめあげて、KS初のプレイアブル版が出来上がった。脇キャラの多くがこの時期に生まれ、メインキャラもより深く形成されていった。この時期に決まった本当に多くのことが、今のKSの確固たるベースとなっている。開発チームはこれを「変えたいけどもう変えられないもの」と呼んでいる。KSの最初の1日分をプレイ可能なアルファ版、Grid1は8月に4chanにリークされ、しばらくの間新たな関心を呼んだ。 NicolArmarfiがサウンドトラック曲を提供する作曲家としてチームに参加した。
07年初秋、後にいわゆる残念なパターンにつながる最初の兆しが現れる。ここまでの成果が先見性や計画性のなさが引き起こした壮絶な過ちであり、すべてを捨てて書き直さないと破滅的な問題が起きる、ということに開発チームは気づいた。作ってきたものを無駄にしたくなかったチームは拾えるものをサルベージすることにした。私はもっとしっかりした枠組みを再構築し、既存の文章をそこにはめこんでいった。このときKSの基本構造が出来上がった。(そして完全版にいたるまで残ることになる。)最初の一週間を収めたAct 1はすべてのルートに共通で、全ライターによる共同作業だ。最終日はヒロインごとに個別のルートに分岐し、それぞれ担当のライターが単独で執筆した。 Act 1の作業終了後、ライターたちは自分のルートの執筆作業に移る。晩秋、私はなんて軽はずみでどうしようもない再構築をしてしまったのかと気づき、今度は自分ひとりで何もかもやり直した。つまり、これがAct 1の第3稿だ。
9月、Deltaが開発チームに参加する。彼はRen'Pyと Pythonを一から勉強し始め、ゲームにふさわしいUIのコードを書くための設計を行った。一方Kは自分の能力への不満からプロジェクトを辞めた。Sはひどい事故に見舞われた。かくしてリリールートのライターと、イラスト担当がプロジェクトから失われた。しかし12月にSurikoが開発チームに加わり、Sに代わってリリールートの担当となった。イラスト担当はさらに重大な問題だった。その時点では知る由もなかったが、私たちは秋から冬、そして春にかけて数名の絵描きを品定めすることになる。みんな熱意を持って参加してきたが、何がしかの理由でプロジェクトを辞めていった。この時期は絵の描ける人材の不足という、特筆すべき大問題を抱えていた。背景画は一枚もできあがっていなかったし(8ヶ月も作業をしていたのに!)、キャラ作画担当の不在のおかげで先行きは不透明だった。
そんな事態をよそに、プロジェクトは各方面で進展していく。2008年の春から夏にかけ、各ライターは担当ルートのシナリオの草稿を仕上げていく。deltaはさらにRen'Pyに習熟し、エンジンそのものに手を入れ、内部の実装やUIにも手を加えていった。そしてゲーム画面は皆さんがAct 1のリリースで目にしたような、念入りに調整されたものに近づいていった。ようやくまともに編集できそうなものが出来上がってきたので、 Silentcook、Losstarot、Kagamiがチームに加わった。私たちは彼らと数人の査読者のグループにAct 1のスクリプトチェックを任せ、Kの古い作画と組み合わせてリリースすることを検討した。(しかしこれは実現しなかった。)
晩春、互いに友人同士である絵描きの寄せ集め集団がプロジェクトKSにその身をささげた。かくしてmoekki、Ambi、weee、gebyy-terarと kamilfishの作品が、作中のキャラ絵やCGとして、皆さんの目に触れることになる。彼らは私たちライターと同様に作業を分担し、各担当キャラクターについて一人一人が責任を持つことになった。各自の絵が互いにつじつまの合う絵柄になるまで、数ヶ月かけて練習を重ね、ゲームを通しての作風を決定した。(Leafのゲームのような『萌え萌え』の作風である)夏になると、本格的なイラスト作業が始まり、最初は立ち絵に着手していった。ある時点で Nicolがプロジェクトに飽きて辞めた。もう音楽は十分そろっていると考えてのことだった。TとFは4LSをクビになった。そのうちに背景の不足が問題になると気づいた私たちは、背景画の下絵にできそうな写真を提供してくれる協力者を募った。運良くYujoviと彼の頼もしいカメラの協力で、ゲーム2本分作ってもまだ十分なほどの写真がすぐに集まった。私とcrudは日本を訪れ、当地の雰囲気を必要とする写真(たとえばお祭りの背景など)を撮影した。 Yujoviの資料を補うのに、これは好都合だった。
ゲーム全体のスクリプトが完了したので、成果を振り返る時がきた。ウボア。私たちはAct 1のスクリプトがまったく満足な質に達していないと判断した。それはこの1年間に書き連ねられた、一貫性のない最初のKSのスクリプトの切れ端をつぎはぎしただけの、フランケン的な代物であった。あいにく作画は遅れていたが、好都合でもあった。私はAct 1のシナリオを再設計し、書き直した。今度こそ白紙からの書き直しだった。前回と同様の合作手法ではあったが、私たち自身のスキルも上がっていたので、ずっとできのいいスクリプトを書くことができた。皆さんがゲーム上で目にしているのがそれだ。
11月、Raideが絵描きとして新たに参加し、画風を他のメンバーとあわせるために苦労することになる。Blue123もBGMのためにいくつか新曲を書きはじめる。彼の作品はオープニングムービーや、久夫が病室にいるシーン(タイトル"Rain")で聞くことができる。
春に絵描き陣がAct 1に必要な絵を完成させる。私たちはリリースパッケージを作り、テストと校正を行い、公開した。
結局、開発チームが自信を持って世に出せるものを作れる(願わくば)『最終形』に落ち着くまで、ほぼ1年間の回り道を要したわけだ。Act 1の出来がいいにしろ悪いにしろ、それは偶然そうなったんじゃない。これはプロジェクト全員の大変な努力のたまものだ。私たちは天才でも間抜けな怠け者でもない。KSくらいの規模のVNを作るのは本当に難しい。初めての経験で一度や二度失敗するのは当たり前のことだ。私の完璧な後知恵をもってすれば、プロのカリスマVN開発者みたいなそぶりで過去を振り返って、何も知らなかったかつての自分たちの、どうしようもなくダサい失敗を笑い飛ばすことができる。今だったらこうするだろう、ということはあまりにも多い。(というかほとんど全部だ)ともかく、VN作りだけでなく、VN製作者の集団としていかに行動するか、ということを学ぶのも時間を要することだった。こういう自由なコラボレーションによるプロジェクトは、作業環境としては全然簡単なものではないからだ。その件でこれ以上語ることはしない。ただ少なくとも他人とうまくやっていくことに関しては、大いに学ぶところがあったと記しておく。
ご覧のとおり、KSは2年にわたる開発サイクルを経ているが、Act 1に実際に盛り込まれたものは、過去のバージョンから引き継いだUI/エンジンのコードと音楽を除けば、半年ちょいで作られている。私たちはかつてないほど好調だが、今後を考えると気が遠くなる。完全版はAct 1の少なくとも4倍の長さと複雑さになる。作業は面白いものになるだろう。だがその話はこれから先のもので、この物語はAct 1がリリースされた先週の水曜日でいったん幕を閉じる。ひとまず、ここでおしまいだ。
…
いかがだっただろうか。この記録は過去の足取りを忘れることのないよう、おおむね自分と開発者たちのために書いたものだ。それでもわざわざ関心を持って最後まで読んでくれた方もいるかもしれない。長ったらしく、失敗と不運とビジュアルノベルの世界へのおろかな冒険に満ち溢れたこのお話には、教訓もなければクライマックスもないし、終わりもいまだに見えていない。でも私たちの物語はそういうものだ。
-Aura
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