2010年5月31日月曜日

モチベーションについて




雑誌Wiredの最新刊で、面白い記事を読んだ。その記事は雑誌のウェブサイトでも読めるので、ぜひ読んでくれ。(少々簡略化されたバージョンかも知れない。確かめていないが)

※リンク先記事要約:[人を働かせるのに、アメやムチが一番効果的だとか、唯一の方法だというのは誤った常識だ。自身の喜びのためというのが、最も長続きするモチベーションになる。これまで近代人の余暇時間はテレビなどで受動的に消費されてきたが、携帯電話やコンピュータによって、能動的な生産も行えるようになった。人は自身の喜びのために創造的な活動を行うので、教育を受けた人間の余暇時間は1つの資源である。]

さて、戻ってきたかな。記事と私たちにどう関係があるのか分かったかも知れないね。彼らが語ってることは、KSの(真っ黒で汚い)核心をまっすぐ貫いている。KSにはとんでもない量の工数――私たち開発チームのかけた時間――がつぎ込まれている。だが個人レベルでは、私たちがこのゲーム開発から得るものは多くないし、たとえ私たちがある日「やーめた」と解散を決定したところで、悪いことにはならない。だって、これまでに私が手に入れたものと言えばせいぜい、多少文章力が磨かれたのと、ネット上での微妙な名声くらいのものだから。ネットの果てに消えうせて、二度と現れなくても別にいいわけだ。じゃあ、一体なぜ、まだここにいるのか? 何が私たちを開発続行へと駆り立てるのか?

答えは明白で、それは冒頭にあげた対談記事で二人の著者が言わんとしていたようなことだ。三つ目のモチベーションがある。アメでもムチでもなく、その間のなにかでもないモチベーションが。私はビジュアルノベルを読むことは特に好きじゃないのに、それを作ることに魅力を感じる。満足感を得られる。15人くらいの仲間と目標地点について語り、問題解決に取り組み、批評して、批評される。頭に浮かんだことを言葉にすると、誰かが何かを読み取ってくれる。そういったことに大きな喜びを感じる。落ち込んで憂鬱で、物事が上手くいかない時でも、その奥底には刺激がある。あの記事は正しい。金のためならこんな事したいと思わなかっただろう。何かのトレーニングとして強制された場合でも同じだ。面白いからこんなことをしているんだ。

娯楽などを受動的に消費する動機は何か? 何もないだろう。受動的っていうのはそういうものだし、実際あなたがテレビを見るのにたいした理由はいらない。(文化的に、ここではアニメやマンガやビジュアルノベルを例に挙げるほうが適切かもしれない)そこに満足はあるのだろうか? あるとは思うけれど、能動的な生産に伴うものとは比べ物にならないかもしれない。確かに難しいゲームをクリアしたり、『バフィー』の世界に浸るのはとても楽しい。(後者についてははっきり知らないけれど)しかし数年後、ゲームのハイスコアを更新したときのことを覚えているだろうか? 大好きだった『バフィー』シリーズの第4シーズンの事を覚えているだろうか? メディアは似たようなものを次々に量産し、その中に埋もれていく傾向にある。能動的な参加というのはいつまでも消えないものだ。たとえばウェブサイトを開くとか、tvtropes(※創作物によくあるプロット、シチュエーション、台詞などを分析した記事が集まるwiki系サイト)の記事を編集するとか。

インターネットは、それ自体が例の3つ目のモチベーションに基づいて出来ている。商業サイトの何十倍もの非商用サイトがある。その幅はといえば、Wikiから始まってSourceforgeまで、さらにディープなところでは、15年前のゲームを黙々とリメイクしている5人組がいたり、障害がある男女のラブストーリーを、話者が世界人口の 0.6%もいないようなマイナー言語に翻訳しようとしていたりする。ついてくれているファンの中でも私がとりわけ好きなのは、影響されて自分でも何かを作ろうとしてくれる人たちだ。ファンフィクションや、ファンアートや、翻訳プロジェクトや(どれほど大変なんだ? 翻訳している人たちは大好きだ)、あるいは自分自身ビジュアルノベルを作ろうという挑戦や、コスプレなど、なんでもだ。そこにはつながりがある。それは、生気のない目でポテチを食べながらだらだらテレビを見ている人とテレビ番組のプロデューサーの間にはないものだ。(もちろん、エロエロなLOSTのファンフィクションも沢山あるのだろうけれど)みんな自分自身の『何か』を見つけるべきだ。興味を引かれる、テレビの再放送を見るより楽しい何かを。ここで「でも何もスキルとかないし」なんて言おうものならお尻ぺんぺんの刑だ。そんな弱音は許さない。やって覚えるんだ。私たちもそうやってきたよ。初めて作ったら酷かったって? じゃあそれは捨ててもう1回だ。私たちもそうやってきたよ。

私はKSの開発に参加したときのことを今も覚えている。たいした目標もなかった。ファンもついていなかった。ビジュアルノベルをどう作るのか見当もついていなかった。振り返ってみれば、あの時あのプロジェクトを選んだのにはっきりした理由はなかった。その先何年もの間たくさんの時間を費やす対象なのに、だ。ただ面白そうだと思っただけだった。メディアを消費するのに使っていた時間を、ものを作り、それについて語り、名前も知らない人に怒鳴られる時間と交換した。その価値はあったかって? あった。あまりに面白すぎて、こういったことに気付かずにいられなかったのだから。

- Aura

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