2010年12月24日金曜日

内紛

(訳注:遅くなりましたが、英語ブログ2010/11/24分の記事です。)

ビジュアルノベルの作成は戦いである。ここ4LSでは、文字通り、そして比喩的にも、しばしばこれが成り立つ。私たちの中には、共同作業を行おうとするといつも互いにけんかを始める三つの派閥がある。ライティング、イラスト、そしてディレクションだ。その理由は、VNはリソース管理のゲームであり、負けないようにプレーする唯一の方法はプレーしないこと以外にないからだ。ビジュアルノベルは本質的に、私たちが「資産(asset)」と呼ぶ部品の集まりを、プログラムの魔術によって一つに組み合わせたものだ。作るのがもっとも「高価」であるという理由から、イラストは有限なリソースとして扱われる。VNは多くの場合、イラスト資源を節約するという思想の元に作られる。可能な限り再利用し、できうるときはズルをするのである。作業をする際は、誰もがイラストの有限性を考慮しなくてはいけない。

そのため、KSのようなVNの基本構造は二人(あるいはそれ以上)の人物の会話、そして主人公のモノローグだ。これらは低コストで映像化することができる。キャラクターの立ち絵と背景があればおしまいだ。しかしこれら以外の何かが発生した場合(たとえば、二人のキャラクターがキスをする)、解決しなければいけない問題が発生する。ゲームスクリプトの一行一行をビジュアル化しなくてはいけない。そのため個別の解決策を考え出す作業はディレクターに委ねられる。ディレクターは問題を回避し、キスシーンを読者の想像に任せるか(手抜き)、または既存のイラスト資源を駆使してキスの表現をひねり出すか(不気味)、イラスト担当にキスシーンの絵を描くよう依頼するか(高価)、またはライターに本当にキスシーンが必要なのか考え直すよう頼む(難儀)ことができる。

リソース節約的な映像化によって、興味深い問題がVNのライターに突きつけられる。ある種の物語の説明文を使うことを避け、会話と主人公の「内的モノローグ」を多用しなくてはいけないのだ。経験の少ないライターとして言うと、私はこの制限は非常に解決が困難だと感じた。多くの場合、私自身、ディレクター、イラストレーターのどれか、あるいは全員がこの問題のために不愉快な思いをした。

さて、ディレクションとは面白さよりも機能性を重視するものだ。KS開発から例を挙げると、一部のキャラクターについてある種の衣装バリエーションを作画する際、既存の立ち絵に上書きするのではなく、ポーズも別途描き起こすことになった。イラストレーターが新しいポーズを描きたがったからだ。しかしこれはdeltaの怒りを買った。各キャラに新しい衣装が追加された場合、彼がキャラクターの雰囲気・ボディランゲージ・気分を伝えるための「言語」として使い慣れていた、表情やポーズのパレットがまるまる使えなくなってしまうためだ。同じように、イラストレーターたちはシーンやイベントについて、(ライターやディレクターに言わせれば)必ずしも必要でないイラストを描きたがることもあるだろう。これは必然的に、絵を描くのに使われるべき時間が使われないことになる。そしてもちろん、イラストレーターはとにかく不可能なことを頼まれることもある。

つまり、これは戦いなのだ。ライターはあらゆる種類の気まぐれをやりたがる。ところがその気まぐれにつきあっていろんなかっこいいことをしようとするディレクターがいる。そしてディレクターは何百万枚ものイラストをイラストレーターに依頼するが、そのイラストレーターはまるっきり異なる気まぐれな絵を描きたいと思っている。そのうちに誰かがパニック発作にかかって、チームの全員を地獄に堕ちろとののしるか、一週間の深酒に明け暮れることになる。この本質的に相容れない構図は、構成員の態度と性格、自分自身と他者を苦しめるための意欲によっていずれ自然に解決する。独創的な案を捨てる羽目になったライターか、さらに時間を奴隷労働に費やさなくてはいけないイラストレーターか、新たなビジュアル化の方法を考え出さないといけないディレクターか、あるいは映像化を回避する場合は三者全員か、いずれにしても誰かが譲らなくてはいけない。KSを作るにあたり、私たちは映像表現についてかなり高い水準を保っていると個人的に思う。つまり、余力のある限り(余力を超えることも多々あるが)、できるだけ多くのものをビジュアル化しているということだ。これを拡充するような、ある種の人的資質も揃っている。結果として、私たちはしばしば自分たちのやり方でおのれの問題を解決しているわけだ。映像表現の水準について、妥協をすることはほとんどない。通常はスクリプトを直すか、イラスト資産を増やす方を選ぶ。


さて、ここまで述べてきたやり方は唯一のVNの作り方ではない。私の意見を言うなら、結局の所いいやり方でさえない。他の様々なことがらと同じように、これは私たちがただたどり着いてしまった制作手法であり、それを守っているに過ぎない。もっと経験を積んだ、有能なチームであれば、これまで説明してきたような問題によりよく対処できたことだろう。一方私たちはどうにかやりくりして、日々このプロジェクトに骨身を削っている。少なくとも、今こうした議論が起きた場合、かつてのように破滅的な大混乱にまで至ることはない。大したもんだ。私たちだって学習するんだな。

- Aura

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