完全版のリリース以後、海外の各種ゲームサイトやブログで、かたわ少女のレビュー記事を多く目にすることができるようになっています。
ゲームニュースサイトのKotakuオーストラリア版に、Aura氏へのインタビューを含む紹介記事が掲載されました。こちらに日本語訳を掲載します。
(翻訳について問い合わせフォームから問い合わせたのですが、回答が得られませんでした。もしクレームがあった場合は記事を取り下げます。)
リリース直後の一連の裏話については現在翻訳中ですので、もうしばらくお待ちください。
----
思いも寄らない真摯さ:障害、少女たち、そしてかたわ少女のこと
(元記事> http://www.kotaku.com.au/2012/01/unexpected-sincerity-disabilities-girls-and-katawa-shoujo/)
もしあなたが『かたわ少女』プロジェクトのように、多国間で無償で作成された障がいのある女の子達とデートを楽しむエロゲが作られていると聞いたとしたら、どのような想像をするだろうか? 醜悪で道理に反し、やりたい放題な内容になってしまうと考えるのではないだろうか。その上、繊細さと思いやりの『無さ』に定評のある超巨大掲示板、4Chanからその製作が始まったと聞けば、ますますその考えを強めるに違いない。
しかし、それは間違いだ。
ゲームの舞台となるのは、様々な障がいを抱え、特別な支援を必要とする生徒の為に創立された私立学校。心臓に問題がある事が分かり、この学校へと転校せざるをえなかった一人の少年、久夫の生活を中心に『かたわ少女』の物語は進んでゆく。ビジュアルノベルと呼ばれるジャンルのゲーム(逆転裁判, 極限脱出 9時間9人9の扉, ゴーストトリックやウィッシュルーム 天使の記憶と同様だが、さらにゲーム性の低いもの)である本作は多量の文章を含んでおり、時折出現する行動の選択肢によって物語が変化してゆく。勿論このゲームであれば、各ルートで様々な障がいを抱える同級生とのロマンスが中心となって展開してゆくのだ。
それだけを聞くとこのゲームは、まさに「他人が聞いたら眉を顰めるような性癖」を満たす為の手ごろで簡単なポルノのように聞こえるかもしれない。しかし、勇敢にも(または大喜びで)このゲームの世界へ入っていった人々からの反応は、大多数がそのゲームの誠実さへの賞賛であった。内容に細心の注意を払い、クオリティは一般で売られている商品と比べても遜色が無く、そして我々の感情へと強く強く訴えかけてくる物語を備えている、と。
Leigh Alexander が2010年に体験版の取材を行った時、彼女は以下のように書いている。
「かたわ少女は人々が想像しているものとは大きく違い、主題への深い尊敬の念に満ち溢れている」
問題と認識
主に西洋文化で育った人々にとって、エロゲの本質の一部とも言える性行為と性的表現に対しての享楽的な部分が『かたわ少女』における最も大きな問題点であった。異質で不快に思われても仕方の無い主題と、露骨な題名(「かたわ」は主に身体の障がい、もしくは障がい者を意味するが、英語の"crippled"に近い。日本では時代がかった差別的な言葉とされる。)を持つこのゲームは、初見の時点で極めて侮辱的な印象を人々に与えてしまうのも無理は無かった。
「性行為を含む物、特にゲームの類は、ただ性的な感興とポルノを楽しむという目的のためだけに作られているのだ」というのが社会の一般的認識だとすると、この障がいを主題としたゲームを見た人々が真っ先に「特殊性癖の人」用の物だと思うのも仕方がないのだろう。しかしこのゲームの開発者グループであるFour Leaf Studiosのメンバーは、そのような反応は間違っていることを証明するために多大な労力を費やしている
「純粋で誠実な物語を作るために、あらゆることを一から設計した。決してつまらない性癖を満たす為だけに作ったのでは無いよ」 かたわ少女製作グループのメインライターであったAura氏は語る。「私たちがそうすることを決めたのは重要な決断だったけど、同時に自然に決まったことでもあった。」
彼の決断の中にあった重要な点の一つが、まず様々な障がいの現在の実情をしっかりと捉える事であった。Aura氏は、開発チームによる広範囲に渡った詳細な調査がそれを可能にしたのだと主張する。「私達のチームの中には医療関係の職についている者がいて、物語が現実的であるかを常に確認していたよ。また、障がいについても調べた。その種類、度合い、そして今存在する障がいに対する解決方法。もちろん想像力を働かせて作った部分もそこかしこにある。ただ心に留めておいたのは、障害を現実味のある形で描写することが大事だということだ。」
この考えはゲーム内の性的行為にも及ぶ。「個人的に、エロゲ全般のセックスシーンは実に馬鹿げていると思えるんだ。作り自体もぞんざいだし、その部分以外のごく普通な物語とのギャップが酷いと思う。こういう唐突な展開は実にうっとうしい。単に性的欲求を簡単に満たす為だけに遊んでいるのなら、それでも構わないと思えるのかもしれないけどね。でももしそれが目的なら、このゲームのように何万、何十万文字もの長さの物語をわざわざ読みたいと思うかい?」
「私達はただ単純なポルノなんてのは作りたくなかった。だから、私達がそうなって嬉しいと思えるタイミングと方法でのセックス場面を作り出そうと努力を重ねてきた。各シナリオのライターと絵師たちはそれぞれ違った方法でそれを達成しようとしてきたけれど、全体的な総意としてはセックスが物語中のごく自然な一部に思えるようにするという事だった。人々の現実での生活の中でもごく当たり前に行われているようにね」
「ただ、私たちがエロゲを作っているのだという事は忘れていない。だからこそ、客観的には不要な要素もゲーム中に作り込んだんだ。たとえば主役の女の子達全員分のセックスシーンとかね。」 そう認めながら、Aura氏は続ける。 「でもさっきも言った事だけれども、全てにおいて話から逸脱しない、ごく自然な流れを保つ事が私達の希望だった」
はたして性的行為の内容を含まずしてこのゲームはこれほど感銘を与えうるものになっただろうか? と言う質問に対し、Aura氏はこう答えた。 「勿論そうなったと私は思っている。性的なシーンを含めるべきか否かという議論は製作している長い間、ずっと話題に上っていたんだ。私にとっては、それが実際の所不要だったという事の証だと思えるよ」
心臓の鼓動、心の痛み
改めて言うまでもなく、Four Leaf Studiosは礼節と敬意を持って障がい問題を取り扱い、味わい深く心に語りかけてくる物語を作り上げる事に大成功した。ゲームを進めていく中で感じた衝撃を共有しようとインターネット上では日々無数の会話が繰り広げられているが、その参加者の中にAlex*という人物が居る。彼は大多数の他プレイヤーとは違う視点からこのゲームの内容を見ていた。今回は彼について話をしていこうと思う。
Alexは演奏家であると同時にゲーム好きな、ごく普通の人物だった……昨年の7月に二種類の重度の不整脈症状を患っているのだと発覚するまでは。その症状は、このゲームの主人公である久夫と非常に似通っている。「僕は自分にストレスを感じさせるような行動を何ひとつ出来ないんだ」 Alexは語る。 「そうなると精神的にますます辛くなってくる。自分の抱えている全ての問題がこの症状のせいなんだって思えてきたりね。病院までも大嫌いだと感じるようになっていたよ」
「でも同時に、僕の周りの人はみな何かしら自身の重荷を背負っているのだ、と言う事にも気付く事が出来た。おかげで今僕は、他人の視点に立って深く考える事が出来るようになった。まさにこのゲームのおかげで目から鱗が落ちたって奴さ」
Alexは彼の心臓の問題が発覚する以前から『かたわ少女』の事をネット上の掲示板などで聞き及んでおり、体験版は既に全てクリアしていたそうだ。しかし、当然ではあろうが、彼自身の症状が判明してからのゲームに対する思いは大きく変わって行ったと言う。
「このゲームはやはり素晴らしいよ。不整脈を患って、病院でただ過ぎていく時間を見守るだけの生活で感じる精神的苦痛が、そして何をするにしても今後一生心臓の事を気にして生きていかなければならないという事実を突きつけられている悲しみが、とても良く表現されているのだから」
「主人公はゲーム内で、病院に閉じ込められて将来をまったく思い描けない状況への感情を吐露している。また、彼が持つ症状をまるで呪縛か何かのように感じ、そこから一生逃げられないのだとも感じているね。これらはまさに、僕がリハビリを始めてから最初の数ヶ月で感じていた事とぴったり一致するんだ」
「かつての自分にとって、そう言った文章は単に暇つぶしに読んでいた文章でしかなかった。でも自分自身が同じような状況に放り込まれた今では、主人公により共感できるんだ」
「確かにかたわ少女という題名が率直過ぎるとは思うけれど、ゲーム自体が乱暴な物だとは全く思っていない。僕らのような存在だって人間なんだ。人生が様々な困難に取り囲まれていたとしても、普通の生活を送りたいと思っているんだよ。分かるかい?」
数奇な歴史
かたわ少女製作の物語の始まりは10年以上前にさかのぼるが、実際の開発が継続的に続けられたのはその半分のほど期間である。2007年1月、掲示板でとある風の谷のナウシカの同人誌が色彩化・翻訳され、アップロードされた。RAITAという人物によって描かれたその同人誌の作成は2000年という古いものであったが、その中でRAITAは将来の製作構想のひとつとして、障がいを背負った少女達との交流を主題としたビジュアルノベルについてのコメントやキャラクターの絵を描いていた。
それは4chanの一部の中で大反響を呼び、匿名の住人たちは熱狂的にその構想を取り込み、ついには存在すらしていなかったそのゲームを作り上げようという試みすら始まった。製作は様々な事件を経て4Chanの掲示板の元を離れる必要性を感じ取り、専用の開発チームを形成。それをFour Leaf Studiosと名づけた。奇妙奇天烈で大衆的、そして何よりも混沌という言葉がぴったりな公開掲示板への名無しの参加者はやがていなくなってしまった。それでもFour Leaf Studiosは、その起源が巨大な名無しの集合体にあることには認めつつも、4chanからは名実共に分離した形で突き進んでいった。奇妙奇天烈で大衆的、そして何よりも混沌という言葉がぴったりな巨大掲示板との交流はこの時点で終了しているが、Four Leaf Studiosのメンバーはこの匿名の集団から象徴的・実質的に離れていたとしても、その起源は間違いなく4chanにあったのだと全員が同意している。そして彼らは、様々な困難を乗り越えてきた。
「4chanとのつながりは、まさに両刃の剣なんだよ。とある人には魅力的に見えても、別の人にとっては拒絶の対象になってしまう事もある」 Aura氏はそう認めながら続けた 「私達は何年も前からこのチームは4chanではないと言う事を宣言してきたし、実際このゲームは4chanで作られたものでは無い。それでも、同じような存在だと思われていたとしても騒いだりはしないよ。事実が述べられている限りはね。」
Four Leaf Studiosのメンバーのほとんどが匿名を使用し、現実での名前を表に出していた者はほとんど居なかった。その事実だけでも彼らが4chanから離れていたとしても、そこから続くインターネット文化や意識を根強く持っている事が分かるだろう。
「もうこれは伝統的と言ってもいいんじゃないかな、きっと。昔からインターネット上では、無名や匿名での交流がほとんどだったから。」 Aura氏は説明する 「つまり、私達がそういう方法を取ったのはごく当たり前の事だったよ」
特異性
Four Leaf Studioの存在は、小規模独立プロダクションとしてはとても珍しく、言ってみれば完全にユニークである。世界中に散らばる21人のインターネット上でしかお互いを知らない人々が、報酬を全く期待する事もなく、ただひたすら作成に情熱を傾ける。そこまでの努力と時間の結晶であるゲームをなぜ、無償で提供しようとしたのだろうか?
「作業しなくてはいけない量が膨大になる事は目に見えていたからね。もし有料で販売して売り上げが出たとしても、私達がやってきた事に比べればそんなものはほんの小さいものさ」 Aura氏は語る。 「もしくは、ある意味理想を求めて作業をしてきたからなのかもしれない。この製作プロジェクトを立ち上げた時から報酬はこれっぽっちも期待していなかったし、それがある意味原則になっていたから、後からみすぼらしい真似をしてでも覆そうとは考えなかったね」
「他の理由としては、そう言った事で頭を悩ましたく無かったんだ。お金はいつも面倒な問題を引き起こすものだ。無料で欲しがる人全員に配る、それが単純明快だし、私達もそれがベストだと思ったのさ」
Aura氏が『創造性の培養試験皿』と表現したこのプロジェクトは、すでに出来上がっていた労働環境にすぐさま影響を及ぼしたわけではなかった。 「始めは単なる開発の手順でしかなかった物が、試行錯誤を繰り返す事で次第に組織的な開発の方法へと変わって行ったんだ。最初は私達の効率はなかなか上がらず、でたらめに迷走する事もあった。けれども、私達が大得意とする部分もあったんだよ」
「全体的にみれば、長期的なプロジェクト進行の中で最大限の効果を引き出したいならば参加者が心地よいと思える労働手順を確立してく事が大切なんだと思う」 Aura氏は当時を振り返りながら語る。 「基本的で、最も頻繁に行われる流れ作業では、意見を聞いては手直しをし、また意見を聞いては手直しをする、と何度も同じ事を繰り返していく必要がある。その中でメンバーは必要があれば何日もかけて単独で作業をする事もあるけれども、それも全て製作を進めていく流れの中で共にやっているのだと言う仲間意識を持つ事に繋がっていったんだ」
「私の知る限りでは、こういったビジュアルノベルゲームの製作に関して、私たちは全員素人だった。けれど、メンバーの数名が現実で専攻している勉強や実際に働いている職業は、Four Leaf Studiosでの役割に関連があった。その結果は当たり前だけど、いろんなことをいちから学ばなければならなかったし、間違った手法で作ったコンテンツを作り直したりもしないといけなかった。」
「私達は言うまでもなく、インディーズでゲームを開発しているグループだよ。他にどう言い表せば良いか良く分からないくらいにね」 Aura氏は続ける 「独立性や創造性と言うかそういった物が私たちにってはとても重要だと感じていたし、日々考えている事全てをこのゲームに費やそうと努力していたくらいだよ。実の所、このゲームは他の誰にでもない、私達20人のメンバーのためだけに作っているんだという気分に時々なっていたんだ」
「きっとこれが一種のエクストリーム同人ゲーム開発なのかもね……いや、どうだかは知らないけどさ」
展開していく物語
ビジュアルノベルというものは、テレビゲームとテキストアドベンチャーゲームが混ざったような物だが、どちら側がより強く表現されるべきかなどという事を決める必要はない、と開発チームは考えているようだ。だが、としている。それに関し、Aura氏はこう語った。 「それは……確かに、YesかNoかで答えられる事では無いね。4LSのメンバーの中でもその意見は割れている」
「基本的に、ビジュアルノベルに真にゲームと呼べるだけのゲーム性が十分にあるとは言えないんだ。自身の選択で進むページが変わっていくゲームブックに、絵と音楽をくっつけたようなものさ。そしてゲームブックのようなものを『ゲーム』とは呼び難いよね。ビジュアルノベルでは様々なエンディングをくっつけて、そこに到達出来るかどうかで勝敗を決める要素もあるからゲームとして取り扱うのは理解できる。ただ、必ずしもゲームの範囲に含めなければいけないものでも無いし、そう言った考え方は根本的に違うと個人的には思う。つまり、ビジュアルノベルは多くの人からゲームと言う風に扱われているけれど、実際の所ゲームでも何でもないんだよ」
「そして、テキストアドベンチャーゲームを書くというのはそれ自体が独特の手法であって、特有の難しさがあるんだ」 Aura氏が考え込みながら言う 「そうだね、映画や舞台の脚本を書く事と比べてみようか。どちらも映像と音楽も重要になってくるからね。ただ、ビジュアルノベルでは主要人物の心情やその移り変わりが非常に重要になってくる事が多い。その点が映画や舞台の脚本を書くにあたって重要になる事はめったにないよね」
「選択肢によって様々に枝分かれしてゆくという構造を持つ文章を書く事もまた、とても難しい点だね。それがビジュアルノベルを書く上での最も難しい事であり、この分野と他の文学を分け隔てる大きな違いでもある」
5年という歳月をかけて生み出された世紀の傑作から、Four Leaf Studiosは何を学んだのかと質問をしてみた。するとAura氏は特に考え込む風でもなくこう答えてくれた。 「ビジュアルノベル形式と言うのは今までのゲームの歴史のなかでほとんど扱われてこなかった分野だけれど、実際の所はとてつもなく奥の深いものだと分かったよ。誰もが自身の想像力を十分に発表し、演出する事の出来る素晴らしい物なんだ。けれども、今あるゲームのほとんどがそこまでの努力をあえてしようとはしていないのが非常に残念だ。分野としては始まったばかりの媒体だし、今後の製作者達には是非とも表現の限界へと挑戦して行って欲しいね」
「また、このビジュアルノベル方式はスマートフォンのような携帯端末やタブレット端末で遊ぶのに最適だと思うんだ。開発者達はその点をもっと良く突き詰めて欲しい。西洋文化におけるゲーム業界の現状打破は非常に難しいとは思うけれど、決して不可能ではないはずだ」
最後に
(かたわ少女開発ブログで公開された)ゲームのリリースノートによると、Four Leaf Studiosの物語は完結したとある。しかしAura氏はこの点について言葉を濁している。「私達はこのゲームを完成させる為に集まり、そしてついにそれを完了した。私達自身の役目もまた、完了したのだ」と書いているが、彼はその事について「解散」では無く、むしろ「冬眠」のように捉えてもらいたがっているようだ。ブログ記事では「4LSという集団として、別のゲームを作る事はない」とも述べているが、Aura氏は何処か、それはある意味で機会・状況・そしてインスピレーション次第であると考えているようだ。。
「まだこれと言って決まった今後の予定は無いんだ。私たちの誰かが何かを新たに作り出そうと動き始めるかどうか、全てはそれにかかっている」と彼は繰り返す。
「と言っても、完成版発表の二日後には一人の絵師から今後のプロジェクトについて提案があったからからね。しかも、先のプロジェクトと同じくらいの熱狂さで。それが私たちの今後を暗示していると思うよ」
最後に。Aura氏が総括した『かたわ少女』における重要なメッセージのひとつに、「人がその障がいによって定義付けられる事など無い」というものがある。そして多くのネット上での評論がそれに同意している。EscapistマガジンのコラムでDeskimus Prime氏はこう語った。「これは障がい持ちの少女とデートすると言うゲームなんてものではない。デートする少女がたまたま障がいを負っているというだけなのだ。人々がその障がいによって定義され、区別されるという考えを私は憎む。そしてこのゲームの中心にあるテーマは、『人は、各自がどのような人物かによって個別に判断されるべきであり、意図的な偏見や横着によって寄せ集められた特徴の積み重ねだけでその人を判断しようとする事は間違っている』、まさにそれなのだ」
Alexもまた、このゲームに関して同じ感想を抱いている。「僕はこのゲームのプロジェクトがはじまってから何年もずっと追いかけていたようなファンでは無いんだ。けれど、もしこの『かたわ少女』に何か意味を見出すならばこういう事だと思う。『たとえどのような過去があっても、どのような外見をしていようとも、その人は人間なんだ。そして人間らしく生きていくべきなんだ。』」
「でも悲しい事に、そういったメッセージは多くの人には伝わっていかないのが現実なんだと僕は思う」
*プライバシー保護のため氏名を変更しています。