2011年2月8日火曜日

星空に手を伸ばす

(本家ブログ2011/1/18の記事の翻訳です。)

ままあることだが、面白い意見を持った人たちがIRCの会話を増やしてくれ、私も自分の考え(そして仲間の考え)をブログにまとめたくなった。基本的に、欧米で開発されたビジュアルノベルの現状には様々な人が不満を持っているようだ。十分なクォリティがないし、さらには、もともと日本語で作られた翻訳物にすら及んでいないクォリティなのだ。我々も日本人以外でビジュアルノベルを作っている集団として、この話題にはもちろんいくらか興味を覚える。しかしそれに続く議論はいささか素早く脱線していってしまった。もう我々のうちの誰もそれほど英語製ビジュアルノベルシーンを追いかけていないからだ。代わりに、どこを改良できるかということについて話し合っていた。しかしふと、いつもようにKS開発の短所について語る場合とは違って、もはや自分がその話題についての第一人者ではないことに気付く。私も文化の消費者としてある角度を経験してはいる。誰もと同じように。しかし根本的に私と違う経験をしてきた人は私の見方に全然同意しないかもしれない。多くのビジュアルノベルを読んできた。私より多く読んでいる人も少ない人もいるだろう。名作と呼ばれるものもとても沢山読んできた。好きになった作品もあったし、すごく出来がいいと思った作品もあった。そういった経験が私のビジュアルノベルという媒体への見方を形作っている。私がこのサブカルチャーのこのジャンルに抱いている見方は以下のようなものだ:

ビジュアルノベルというだけでは、それが秘めている高いポテンシャルを実現できない。かすりもしない。実際のところ、スタージョンの法則で保証された上位10%ですらも、他の物語り媒体と比べるととてもひどい。これは最初に貼ったスレッドで非難されていた作品のみに限らず、すべての英語製ビジュアルノベルに言えることだ。ここで面白い事実がある:15人ほどいる4LSメンバーの中で、ビジュアルノベルの新たな翻訳物にまだ積極的な興味を持っているのは一人だけしかいない。絵師が2人ほど日本語ビジュアルノベルのリリースを追いかけているがCGが目当てで、我々もときどき新しいリリース(日本語版も西洋ものも翻訳ものも同様に)に注意を払っているが、それはいつもある種の無感動とともにである。とはいえビジュアルノベルという媒体自体は大好きだし、こんなビジュアルノベルが読みたいというものをイメージすることもできる。

広く一般化した結論:今作られているビジュアルノベルは、そのポテンシャルに比べてずっと出来が悪い。演劇や小説や映画と比べてもはるかにそういう傾向が強い。さて、すぐ飛んできそうなビジュアルノベルを弁護するかんじの主張として、「ビジュアルノベルは若い媒体だ」というのがある。「本を書いたり演劇をやったり、あるいは漫画や映画やアニメーションでさえも、ビジュアルノベルの10年やそこらの短い変遷に比べると非常に長い長い間行われてきた活動だ」ビデオゲームや漫画といった比較的最近のメディアの進化ぶりと比較すると、これには確かにいくらか真実があると思う。さらなる高みへ達するためには、ビジュアルノベルは自らがはまっている無益な洞窟から抜け出さなければいけない。(私の見る限り、ますます深みにはまっていっているだけのように見える)そのうえでとても重要だと考える4つのポイントを述べる:

1.ジャンルへの依存を取り除く

これは最大の問題で、これだけで4,5項目の箇条書きに分けられるほど大きい。しかし読んでいる皆さんがとても退屈するだろうし、論文でもないのでそれはしない。ビジュアルノベルは媒体にすぎないが、ほとんどすべてのビジュアルノベルが何らかのアニメジャンルに当てはまる。ストーリー的にもグラフィック的にも。このサブカルチャーの慣習、あるいは比喩表現と言うべきか、それこそがビジュアルノベルの息の根を止める癌だ。(これは通説でもある)ポルノ的なセックスや、過剰な思春期テーマ、類型的なキャラの個性などの描写が、ビジュアルノベルをニッチな分野として固く閉じ込め、とても少数の熱狂的アニメファン以外を取り込む望みを失わせている。潜在的な顧客の限界を作っている。漫画市場が、そしてビデオゲームですらも成長してその境界線を広げたように、ビジュアルノベルも同じことができるはずだ。

2.言葉の垂れ流しをやめる

2,3の例外を除いて、私が読んできたビジュアルノベルは語数に比べてまったく不十分なストーリーだった。長ったらしく書くことに正当化の余地はあるものの、あれはむしろわずかな良いアイデアをどうでもいいような会話やテンプレ化されたイベントの沼に沈めてしまうというルールに思える。視覚化によって(4.で述べるような適切なもの)多くの言葉は不要どころか邪魔にすらなる。平均的なビジュアルノベルと平均的な劇のスクリプトを比べてみればいい。最近のビジュアルノベルはあからさまに長く、その主な理由は「そういうものだから」に思える。しかしどうしてこんな風潮が始まったのだ?ライターの給金が語数によって支払われているのか?有能な編集者が高すぎて雇えないのか?わかりはしないが。どちらにせよ、人為的に必要以上に引き伸ばされたスクリプトは、とても退屈な読書体験を生む。

3.双方向性の物語り手法を作り上げる

これこそビジュアルノベルを書くときに唯一もっとも難しいところで、他の物語媒体との違いがもっとも分かりやすいところだ。今まで私を満足させてくれる形のルート分岐や双方向性を備えたビジュアルノベルを見たことがない。その理由は双方向性のストーリーが活かせるほど時間とアイデアをつぎ込めなかっただけだろうと感じている。本当に満足のいく双方向性のためには、プレイヤーが成す決断によって大きく展開が変わらなければならず、内容があっという間に手が付けられないほど膨れ上がるからだ。注目すべきは、欧米のビデオゲームがそういった双方向性を実現していることで、私が満足できるだけの幅広さに到達しているものもあるが、残念ながらたいていの場合は物語的な一貫性を犠牲にしている。(どの会話選択肢も些細で、あちこちに無意味な脱線が散りばめられているMassEffectのようなものについて話している)ともかく、双方向性こそ欧米のゲームデベロッパー(欧米のビジュアルノベルデベロッパーではない)が日本より良いビジュアルノベルを作れそうな唯一の分野だ。素晴らしいストーリーを伝えつつ双方向性も同様に上手く盛り込んだゲームも確かにあるのだ。

4.さらなるビジュアル化

これは難しい。deltaは異論があるみたいだけど、私は重要なことだと感じている。他の視覚的な物語媒体と同様に、脚本はビジュアル部分よりもずっと大事だけれど、ビジュアル部分を使わないと視覚的なメディアを使っていることを正当化できない。今の風潮だと、最高のビジュアルノベルですらDinosaur Comicsの親戚といったところだ。あれはせいぜいネタは面白いという程度で、漫画としては大変な駄作だ。Deltaはビデオゲームのカットシーンを逆の例として挙げた。具体的にはこれとか。私は見たことがなかったが、すぐにとても気に入った。オープニングは(わずかに)絵が動くけど、ビジュアルノベルの基本的な構造とそう違いがない。画像と語り部、それだけだ。つまりビジュアルノベルが行き着く最高の形はこんな感じなんじゃないかと。今までに見たビデオゲームのカットシーンの中で最高のものを想像してみよう。それを頭の中で静止画に切り分けて、物語を挿む。立ち絵+音楽+エロCGという常識など吹っ飛んでしまうだろう。これこそ今このときも常に進化が起きている分野だと思っている。革新的なビジュアルノベルは視覚的にどんどん印象的なものになっている。それはわざとらしい萌えキャラが上手く描けているという意味じゃなくて、ビジュアルノベルの視覚的な要素をもっとうまく使っているということだ。最近っぽい例でいうと、Minoriのeden*が思い浮かぶ。Minoriのビジュアルチームは常々トップレベルだったけれど、私の考えでは、eden*でよりはっきりと一歩先に進んだと思う。でもまだ道のりは長い。スペクトラムの反対側で、私が咄嗟に考えられる最高の英語製ビジュアルノベルといえはThe Dreamingだけど、もしルート分岐(いいアイデアだけど、出来は酷かった)とビジュアル(ひどくゲームに合ってない)を取りのぞいて、短編小説として書き直されたうえで曲を聴きながら読めば、もっとよかっただろうと思う。それってビジュアルノベルである意味がないような。

と、これが私が必要だと思うことだ。ハイクォリティなビジュアルノベルを作ろうと思ったら予算がいる、ということを示している項目もあるけど、予算は今のビジュアルノベルにはないものだ。ビジュアルノベルはあまり人気がないから、ファンも少ない。私が見たいと思うビジュアルノベルは、おそらくいろんな理由によって、実は多くの客が見たいと思うものとは違う。ビジュアルノベルはとても小さくニッチなマーケットで、年々小さくなっている。でも、それはビジュアルノベルという媒体自体にはなにも関係ない。明白な解決法はビジュアルノベルが新たなファンを見つけることだけど、エロいアニメ絵や思春期ファンタジーをお届けする場から真剣な芸術へ昇華していくのは茨の道だ。(というのはそういう道を越えてきたあらゆる芸術が示している。頭が下がる)

最後に、個人的な側面を取り入れるため、KSの立ち位置を考えようと思う。と思ったけどやめておこう。前述したそれぞれのカテゴリーでKSがどれくらいやれているか、一通りの意見はあるのだが、具体的な話は完全版をリリースしたあとに取っておきたい。まあ全体的な感慨を述べるだけにとどめると、「あまり良くない」だ。ビジュアルノベル界全体と違って、これがなぜかはよくわかる。KSは前述したポイントで完全に間違えている。我々がまったくもってアマチュアだという――それはしばしば最悪の事態だ――根本的な理由によって。我々が出発した4年前、誰もこういった事について手がかりひとつ持っていなかった。プロジェクトは実験的な事柄のかたまりで、開発の枠組みは常に変化し、学習中のクリエイターは判断ミスをしては結果を受け入れる日々だ。半分から2/3の4LSメンバーはKSが大して好きじゃないと言ってもいいだろう。これは我々がみんなでやってきたことに誇りを持っていないだとか嬉しくないだとかいうことではなく、ただ今知っていることを最初から知っていれば、KSは大きく違ったものになっていただろうし、きっと今ほど親しみやすくもなくて、1年前にはもうリリースできていただろうということ。私だって今のKSがそこそこ好きだが、私にとってこのゲームの本当の長所は――あるとするなら――このゲームを囲むコミュニティと、敢えてこう言うけど、このうえなく素晴しい誕生秘話の旅のもとで作られたということだ。もし我々がチームとして続いていくなら、自分達の考えややり方を見つけながら続いていくなら、いつか本当にすごいものが作れるかもしれないと思う。しかし、たった一つのビジュアルノベルを作ることすら大変な投資で、だからクリエイターとして成長するのは大変だ。自分たちがどれだけやれるか見るためだけに10年や20年も一緒にやっていくっていうのは考えづらい。今あるどの英語製ビジュアルノベルのチームもそうだろう。日本の商業的なチームのほうがいくらかあり得るかもしれないと思うが、彼らの創作意欲も別な形で縛られるかもしれない。どうなんだろうね。ビジュアルノベルを媒体として進化させるには、他と交流しながら、境界線を押し広げようと長期的に奮闘するクリエイターがたくさん必要だ。そんなクリエイター達が現れるには、作品を応援してくれるファンが必要だ。作品に反映し学ぶためのファンが。

卵は勝手に生まれない。なら世界に必要なのは鶏だ。

- Aura

1 件のコメント:

  1. おおむね同意します
    付け加えるとすれば
    ビジュアルノベルの特性そのものがメジャー化を阻んでいる可能性があるということ
    ビジュアルノベルは映像、音、文字を同時に使うことで表現を豊かにしているが
    それは制作者の狙った効果を与えるには読み手に対して映像、音、文字を同時に処理することを要求すると思う
    映像と音は映画やテレビを見るのと同じだが
    そこに文字も加えると本でもなければ映画でもなくなってしまい
    全く新しい読み方が必要になってしまう
    それは単に小説を読んだり、映画を見たりするだけでは身につかないものだと思う
    多くの人は新しい読み方を開発するよりは今まで通りのもので満足してしまう
    それで十分だから結局ビジュアルノベルというものを前にしたとき素通りしてしまう
    読み手そのものが変わらなければならないんじゃないか
    釈迦に説法かもしれませんが素人ながらそんなことを思いました

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