2011年2月28日月曜日

もっとずっと良いものになるのに

もともとこの記事は、非常に示唆に富んでいると感じたある掲示板のスレッドへの書き込みだった。元スレには文末のリンクから飛べる。

このプロジェクトが始まって以来ずっと、性的表現という題目は多くの議論、考察、偏見、そして期待の種となってきた。様々な異なる方向へと引っ張る力が存在しているとはいえ、ずっと前に私たち全員が自分の立場を決めることを強いられた。

一般的に言えば、KSは障害について何か主張をしようとしているわけではないと思う。確かに私たちが取った立場は、人はその人が持つ障害によって規定されはしない、というものだ。それに障害の描き方について私たちは熟慮している。しかし読者が主観的に見いだすかも知れないものを除けば、KSに教訓は存在しない。

年少者にとって不適切な内容が含まれるという事実はあるが、その裏にはもっと大きな問題がある。あるいは露骨な、下手をすれば「ポルノ」と呼ばれかねない性的描写を「真摯な」作品に盛り込むことはその真摯さを減じることになるだろうか? これは多くの要因に左右されるが、その答えは「ノー」よりも「イエス」になる可能性が高いと思う。単にもっと一般的な問題の一部なのだ。痛ましいドラマも不適切なドタバタコメディによって台無しになりかねないように、不適切なセックスシーンによって作品が台無しになることもあるのだ。(そしてセックスシーンを不適切と思わせないことのほうが難しい。)頭に浮かんだ明確な一例が沙耶の唄だ。良くできたホラービジュアルノベルだが、私にとっては露骨なポルノと強姦シーンのおかげで完全に台無しになった。特筆すべきは、性的シーンどころか強姦シーンでさえ、それ自体が作品をスポイルしたわけではなく、それらのシーンの扱い方が問題だったと言うことだ。このことから、これらの出来事を私自身、もっと言えばほとんどの成人視聴者にとって、適切と感じられるような形で描写することもできたのではないかと推測する。セックスシーンを含むあまたの映画はこの意見の傍証だ。映画といえば、映像メディアにおける性描写を考える際に思い浮かぶもう一つの事例が、ザック・スナイダー監督の映画「300」の性交シーンだ。これはハリウッド映画としてはまさにポルノすれすれだが、私はこれが同作品の残りの部分の価値を損なうとは必ずしも思わない。確かにそのシーンのことについてしょっちゅう考えたりすることで、映画そのものの印象が私にとって台無しになっている、ということは認める。それでも、そこには「セックス」と「ポルノ」を区別する、何らかの目に見えない、触れることもできない一線があるようだ。(ここでは問題のない性描写を「セックス」、受け入れがたい、または不快な、価値を損なう性描写を「ポルノ」と手短に呼んだ)ここからかたわ少女に話を変えると、私がKSで書いたセックス描写(ポルノではない!)は私にとっては価値を損なうものではないと言える。なぜならそのシーンや映像描写が、私自身が許容する一線を超えないように大変な注意を払ったからだ。こういうことは結局個人の主観によるので、他のみんなはそうは思わないかもしれないが。仲間の開発者たちもそれぞれに異なる意見を持っているし、そうした意見はゲームの中で彼らが作った部分に表れている。ただ、私は障害を出来る限り人情味と思いやりを持った形で表現しようとしている。性とセクシャリティについてもそれは変わらない、というのが私の立場だ。それをご覧にいれる機会をいただけるよう、みなさんにお願いしたい。

まだゲームがリリースされていないので、ここではお話しできないこともある。みなさんがゲーム中の性的シーンを読み、そこで選択されたスタイルを目にする機会を得た後で、その制作にあたってどのような検討がなされたかを書くかもしれない。


年少の読者については、問題はちょっとややこしい。障害を受容することについて指導、あるいはコミュニケーションを行うための手段として、あなたがKSに関心を抱いている(そしてあなたは最初の一人ではない)という事実は、私たちの文化における障害の描写がとても悲しむべき状況にあることを思い起こさせる。これに限っては、謙遜でこう書いているのではない。KSは、少なくともAct 1では、このテーマについて正しいことを成し遂げたことは確かだ。それでもテーマの扱いについては大いに不足がある。なぜなら問題は別のところにあるからだ。前にも挙げた例を使ってでたらめなたとえ話をすると、それは300の映画で古代ギリシャ史の鑑賞のしかたを伝えようとするようなものだ。映画自体は所々正しい内容があるかもしれないし、歴史の教科書よりは退屈ではないから、そういう用途にふさわしいと感じられる。映画を見た誰かが都市国家スパルタ、それどころかギリシャそのものの本当の歴史について読んでみたいという気持ちになることは十分に考えられる。でもそれはこの映画が目指したものではない。同じような考えがKSにもいえる。それは置いておいて、性描写が含まれているためにKSを親御さんが子供に、教師が生徒に、それどころか誰かがその友人にだって勧めることが出来ない、ということは理解している。それでも成人向けシーンのスキップ設定を除けば、KSは読者の感性について一切考慮をせずに作られている。年齢の低さ、文化的背景、道徳的規範、どんなものであれ。これは自分たちが何に従い、何に従わないのがふさわしいのか、自分では決められないからだ。もっと深くこの問題を明らかにするため、仮に私たちが性的シーンを完全に取り除いたバージョンを作ったとしよう。一部の親はKSに含まれる下品な言葉遣いが、子供たちにとっての一線を越えているという懸念を覚えるかもしれない。じゃあ私たちは性的シーンなし、下品な言葉遣いなしのバージョンを作らないといけない。続いて健二の乱暴な女性嫌いとアンチフェミニズムの主張に不快感を覚える人たちがやってくる。かくしてまた別のバージョンを……おわかりいただけるだろうか? 性は明らかに大きな問題であり、私たちはそのon/off設定を作った。でもそこでおしまいだ。(別の決断をしない限りは)KSはありのままで提供される。その内容の一部をあなたが受け入れられないとしても、あなたがたのために特別に、お好みに合わせて譲るようなことはできない。人々が線を引き始めるに足るほど大きな問題は性の問題だけ、という可能性はあるが、今のところそこを掘り下げるつもりはない。それに、もし私たちが「きれいな」バージョンを作ったとしても、勤勉な若者が一度ググれば、自分が親/教師/どこかの誰かから受け取ったのは修正済みバージョンだと知ることになるのだ。

あなたの言葉の選び方、特に「もっとずっと良いものになるのに」という言葉からは、この要素があなたにとってKSの価値を大きく減じるものだという意図が読み取れる。これはとても残念なことだと思う。私の作品が良いものだと思ってもらえるのはすばらしいことだ。しかし他の人に勧めることを考えていただけるのは、大変に光栄だ。KSがあなたの枠を越えて大きくなってしまったことを申し訳なく思う。同じように、ビジュアルノベルという媒体(ある意味、オタクサブカルチャー全体)を取り巻く偏見もKSに対して一部の門戸を閉ざす手助けとなっている。おそらく、障害を持つ人々への思いやりを欠いた世界では、KSは単なるラブストーリーを越えるものに、博愛と障害者の世界、異質さと疎外感に対する悲しみの物語になりうるのかもしれない。でももう少し理想論をぶつと(笑っていいよ)、これには反論したい。KSはまさにそれそのものだ。それ以上の何物でもない。この世界のほうがもっと開かれていて、寛容であるべきなのだ。

- Aura

フォーラムの元記事はこちらです。

2011年2月13日日曜日

ハッピーバレンタイン

恋愛ゲームにおいて、バレンタインというのは一大イベントです。笑美と琳は一番大事なことが何か、分かっているのです――恋する人に、甘いものを。



ハッピーバレンタイン!

2011年2月8日火曜日

星空に手を伸ばす

(本家ブログ2011/1/18の記事の翻訳です。)

ままあることだが、面白い意見を持った人たちがIRCの会話を増やしてくれ、私も自分の考え(そして仲間の考え)をブログにまとめたくなった。基本的に、欧米で開発されたビジュアルノベルの現状には様々な人が不満を持っているようだ。十分なクォリティがないし、さらには、もともと日本語で作られた翻訳物にすら及んでいないクォリティなのだ。我々も日本人以外でビジュアルノベルを作っている集団として、この話題にはもちろんいくらか興味を覚える。しかしそれに続く議論はいささか素早く脱線していってしまった。もう我々のうちの誰もそれほど英語製ビジュアルノベルシーンを追いかけていないからだ。代わりに、どこを改良できるかということについて話し合っていた。しかしふと、いつもようにKS開発の短所について語る場合とは違って、もはや自分がその話題についての第一人者ではないことに気付く。私も文化の消費者としてある角度を経験してはいる。誰もと同じように。しかし根本的に私と違う経験をしてきた人は私の見方に全然同意しないかもしれない。多くのビジュアルノベルを読んできた。私より多く読んでいる人も少ない人もいるだろう。名作と呼ばれるものもとても沢山読んできた。好きになった作品もあったし、すごく出来がいいと思った作品もあった。そういった経験が私のビジュアルノベルという媒体への見方を形作っている。私がこのサブカルチャーのこのジャンルに抱いている見方は以下のようなものだ:

ビジュアルノベルというだけでは、それが秘めている高いポテンシャルを実現できない。かすりもしない。実際のところ、スタージョンの法則で保証された上位10%ですらも、他の物語り媒体と比べるととてもひどい。これは最初に貼ったスレッドで非難されていた作品のみに限らず、すべての英語製ビジュアルノベルに言えることだ。ここで面白い事実がある:15人ほどいる4LSメンバーの中で、ビジュアルノベルの新たな翻訳物にまだ積極的な興味を持っているのは一人だけしかいない。絵師が2人ほど日本語ビジュアルノベルのリリースを追いかけているがCGが目当てで、我々もときどき新しいリリース(日本語版も西洋ものも翻訳ものも同様に)に注意を払っているが、それはいつもある種の無感動とともにである。とはいえビジュアルノベルという媒体自体は大好きだし、こんなビジュアルノベルが読みたいというものをイメージすることもできる。

広く一般化した結論:今作られているビジュアルノベルは、そのポテンシャルに比べてずっと出来が悪い。演劇や小説や映画と比べてもはるかにそういう傾向が強い。さて、すぐ飛んできそうなビジュアルノベルを弁護するかんじの主張として、「ビジュアルノベルは若い媒体だ」というのがある。「本を書いたり演劇をやったり、あるいは漫画や映画やアニメーションでさえも、ビジュアルノベルの10年やそこらの短い変遷に比べると非常に長い長い間行われてきた活動だ」ビデオゲームや漫画といった比較的最近のメディアの進化ぶりと比較すると、これには確かにいくらか真実があると思う。さらなる高みへ達するためには、ビジュアルノベルは自らがはまっている無益な洞窟から抜け出さなければいけない。(私の見る限り、ますます深みにはまっていっているだけのように見える)そのうえでとても重要だと考える4つのポイントを述べる:

1.ジャンルへの依存を取り除く

これは最大の問題で、これだけで4,5項目の箇条書きに分けられるほど大きい。しかし読んでいる皆さんがとても退屈するだろうし、論文でもないのでそれはしない。ビジュアルノベルは媒体にすぎないが、ほとんどすべてのビジュアルノベルが何らかのアニメジャンルに当てはまる。ストーリー的にもグラフィック的にも。このサブカルチャーの慣習、あるいは比喩表現と言うべきか、それこそがビジュアルノベルの息の根を止める癌だ。(これは通説でもある)ポルノ的なセックスや、過剰な思春期テーマ、類型的なキャラの個性などの描写が、ビジュアルノベルをニッチな分野として固く閉じ込め、とても少数の熱狂的アニメファン以外を取り込む望みを失わせている。潜在的な顧客の限界を作っている。漫画市場が、そしてビデオゲームですらも成長してその境界線を広げたように、ビジュアルノベルも同じことができるはずだ。

2.言葉の垂れ流しをやめる

2,3の例外を除いて、私が読んできたビジュアルノベルは語数に比べてまったく不十分なストーリーだった。長ったらしく書くことに正当化の余地はあるものの、あれはむしろわずかな良いアイデアをどうでもいいような会話やテンプレ化されたイベントの沼に沈めてしまうというルールに思える。視覚化によって(4.で述べるような適切なもの)多くの言葉は不要どころか邪魔にすらなる。平均的なビジュアルノベルと平均的な劇のスクリプトを比べてみればいい。最近のビジュアルノベルはあからさまに長く、その主な理由は「そういうものだから」に思える。しかしどうしてこんな風潮が始まったのだ?ライターの給金が語数によって支払われているのか?有能な編集者が高すぎて雇えないのか?わかりはしないが。どちらにせよ、人為的に必要以上に引き伸ばされたスクリプトは、とても退屈な読書体験を生む。

3.双方向性の物語り手法を作り上げる

これこそビジュアルノベルを書くときに唯一もっとも難しいところで、他の物語媒体との違いがもっとも分かりやすいところだ。今まで私を満足させてくれる形のルート分岐や双方向性を備えたビジュアルノベルを見たことがない。その理由は双方向性のストーリーが活かせるほど時間とアイデアをつぎ込めなかっただけだろうと感じている。本当に満足のいく双方向性のためには、プレイヤーが成す決断によって大きく展開が変わらなければならず、内容があっという間に手が付けられないほど膨れ上がるからだ。注目すべきは、欧米のビデオゲームがそういった双方向性を実現していることで、私が満足できるだけの幅広さに到達しているものもあるが、残念ながらたいていの場合は物語的な一貫性を犠牲にしている。(どの会話選択肢も些細で、あちこちに無意味な脱線が散りばめられているMassEffectのようなものについて話している)ともかく、双方向性こそ欧米のゲームデベロッパー(欧米のビジュアルノベルデベロッパーではない)が日本より良いビジュアルノベルを作れそうな唯一の分野だ。素晴らしいストーリーを伝えつつ双方向性も同様に上手く盛り込んだゲームも確かにあるのだ。

4.さらなるビジュアル化

これは難しい。deltaは異論があるみたいだけど、私は重要なことだと感じている。他の視覚的な物語媒体と同様に、脚本はビジュアル部分よりもずっと大事だけれど、ビジュアル部分を使わないと視覚的なメディアを使っていることを正当化できない。今の風潮だと、最高のビジュアルノベルですらDinosaur Comicsの親戚といったところだ。あれはせいぜいネタは面白いという程度で、漫画としては大変な駄作だ。Deltaはビデオゲームのカットシーンを逆の例として挙げた。具体的にはこれとか。私は見たことがなかったが、すぐにとても気に入った。オープニングは(わずかに)絵が動くけど、ビジュアルノベルの基本的な構造とそう違いがない。画像と語り部、それだけだ。つまりビジュアルノベルが行き着く最高の形はこんな感じなんじゃないかと。今までに見たビデオゲームのカットシーンの中で最高のものを想像してみよう。それを頭の中で静止画に切り分けて、物語を挿む。立ち絵+音楽+エロCGという常識など吹っ飛んでしまうだろう。これこそ今このときも常に進化が起きている分野だと思っている。革新的なビジュアルノベルは視覚的にどんどん印象的なものになっている。それはわざとらしい萌えキャラが上手く描けているという意味じゃなくて、ビジュアルノベルの視覚的な要素をもっとうまく使っているということだ。最近っぽい例でいうと、Minoriのeden*が思い浮かぶ。Minoriのビジュアルチームは常々トップレベルだったけれど、私の考えでは、eden*でよりはっきりと一歩先に進んだと思う。でもまだ道のりは長い。スペクトラムの反対側で、私が咄嗟に考えられる最高の英語製ビジュアルノベルといえはThe Dreamingだけど、もしルート分岐(いいアイデアだけど、出来は酷かった)とビジュアル(ひどくゲームに合ってない)を取りのぞいて、短編小説として書き直されたうえで曲を聴きながら読めば、もっとよかっただろうと思う。それってビジュアルノベルである意味がないような。

と、これが私が必要だと思うことだ。ハイクォリティなビジュアルノベルを作ろうと思ったら予算がいる、ということを示している項目もあるけど、予算は今のビジュアルノベルにはないものだ。ビジュアルノベルはあまり人気がないから、ファンも少ない。私が見たいと思うビジュアルノベルは、おそらくいろんな理由によって、実は多くの客が見たいと思うものとは違う。ビジュアルノベルはとても小さくニッチなマーケットで、年々小さくなっている。でも、それはビジュアルノベルという媒体自体にはなにも関係ない。明白な解決法はビジュアルノベルが新たなファンを見つけることだけど、エロいアニメ絵や思春期ファンタジーをお届けする場から真剣な芸術へ昇華していくのは茨の道だ。(というのはそういう道を越えてきたあらゆる芸術が示している。頭が下がる)

最後に、個人的な側面を取り入れるため、KSの立ち位置を考えようと思う。と思ったけどやめておこう。前述したそれぞれのカテゴリーでKSがどれくらいやれているか、一通りの意見はあるのだが、具体的な話は完全版をリリースしたあとに取っておきたい。まあ全体的な感慨を述べるだけにとどめると、「あまり良くない」だ。ビジュアルノベル界全体と違って、これがなぜかはよくわかる。KSは前述したポイントで完全に間違えている。我々がまったくもってアマチュアだという――それはしばしば最悪の事態だ――根本的な理由によって。我々が出発した4年前、誰もこういった事について手がかりひとつ持っていなかった。プロジェクトは実験的な事柄のかたまりで、開発の枠組みは常に変化し、学習中のクリエイターは判断ミスをしては結果を受け入れる日々だ。半分から2/3の4LSメンバーはKSが大して好きじゃないと言ってもいいだろう。これは我々がみんなでやってきたことに誇りを持っていないだとか嬉しくないだとかいうことではなく、ただ今知っていることを最初から知っていれば、KSは大きく違ったものになっていただろうし、きっと今ほど親しみやすくもなくて、1年前にはもうリリースできていただろうということ。私だって今のKSがそこそこ好きだが、私にとってこのゲームの本当の長所は――あるとするなら――このゲームを囲むコミュニティと、敢えてこう言うけど、このうえなく素晴しい誕生秘話の旅のもとで作られたということだ。もし我々がチームとして続いていくなら、自分達の考えややり方を見つけながら続いていくなら、いつか本当にすごいものが作れるかもしれないと思う。しかし、たった一つのビジュアルノベルを作ることすら大変な投資で、だからクリエイターとして成長するのは大変だ。自分たちがどれだけやれるか見るためだけに10年や20年も一緒にやっていくっていうのは考えづらい。今あるどの英語製ビジュアルノベルのチームもそうだろう。日本の商業的なチームのほうがいくらかあり得るかもしれないと思うが、彼らの創作意欲も別な形で縛られるかもしれない。どうなんだろうね。ビジュアルノベルを媒体として進化させるには、他と交流しながら、境界線を押し広げようと長期的に奮闘するクリエイターがたくさん必要だ。そんなクリエイター達が現れるには、作品を応援してくれるファンが必要だ。作品に反映し学ぶためのファンが。

卵は勝手に生まれない。なら世界に必要なのは鶏だ。

- Aura

2011年2月6日日曜日

リリールートの作業完了

ついにリリールートのスクリプトと演出作業が完了しました。ばんざい!

記事を肉付けするために、ここはまたキャラクターアートのまとめといきましょう。今回はリリーです。



リリーのデザインは元となったRaita氏のスケッチとは少々異なってます。スケッチでは若く病弱に描かれていて、「ちょっとありがち」という言葉が添えられていました。しかしなぜかこの設定はほとんど即座に忘れられて、控えめで母性的な性格と置き換わっていました。この変化が最初に見られたのは初期に書かれたキャラクターコンセプトですが、その後のビジュアル面をも決定したといえます。

時が経ち、Ke^4が絵師として参加しました。彼の描いたリリーは、Raita氏のスケッチに誰かが色を塗ったバージョンの配色を使っていました。ブロンドの髪に青い目という、
典型的な「アニメの外国人」です。髪型はシンプルになり、たくさんのゆるい毛束というよりはウェーブがかったものになりました。そしてここから黒いリボンも欠かせない要素となりました。

Ke^4が抜けたあと、次にリリー担当となった絵師Gebyy-Terarが2案目となるリリーの立ち絵一式を描きました。新しいバージョンの山久学園の制服が使われ、白のストッキングを履くようになり、頭に一房の髪が加わり、前髪は少し軽くなりました。

最終的に、Gebyyが抜けたあとRaideが参加してリリーの絵を引き受けました。長い検討を経て、リリーの前髪は今の形に簡略化され、髪は長くなり、プロポーションも171cmの身長に見合うように変更され、控えめな性格を強調するためにスカートも長くなりました。リリーのポーズと表情のセットが仕上げられ、白杖が追加され、私服が追加されたのはつい最近のことです。



と、これがリリーのビジュアルの変遷で、今の進捗です。


- Suriko