駆け出しのライターは、よく「自分の知っていることを書け」とアドバイスされる。まあ、私は障害のことはよく知らない。自分には障害はない。知人に障害を抱えている人もいない。障害について書くのは難しい。これから残りの人生を全て障害の研究に費やしたとしても、せいぜいそれがどんなものかを大まかに想像することしかできない。なので、他のことについて書く方が簡単だし、それが私のしていることだ。私が琳と久夫のことを書くとき、他にも様々なことについて書いている。結局、私が実際によく知っていることについて書いたりすることもある。だけどそれでも、私は失うこと、孤独、そして障害のことは想像で書かなくてはいけない。
障害というのは、いくつかの性質がある。能力の喪失であり、四肢の欠損であり、完全な人間という定義を満たさない人々を分類するものだ。辛辣で不公平な表現だが、悲しいことにそれは事実であると同時に、事実とはほど遠くもある。人間を定義するにあたって、肉体はどれだけの割合を占めているのか? 古い問題だ。
人がどのようにこれを体感しているかを書くのは難しい。正面から立ち向かわなかったとしても、それはキャラクターからゆっくりとにじみ出てくる。最初から最後まで、ロープの上でバランスをとり続けているようなものだ。キャラクターは当然、自分の障害を意識しているに違いない。でもそのことしか頭にない、というのはちょっとやりすぎだ。障害のおかげで、キャラクターはいろいろな日々の営みに余分な面倒を背負っている。だからといって、その営みがまったく出来なくなるわけじゃない。障害はキャラクターを形作るけど、キャラクターを定義するわけじゃない。久夫は何かを失ったけど、それはどちらかといえば抽象的なものだ。久夫の障害は目で見ることができない。自分の限界を忘れない限り、身体的な制約はあまりない。だけど久夫は自分の新しい境遇に慣れるまでにとても苦しむ。彼は意気消沈し、悩む。多くの読者が驚いた、Act1の一部のシーンで見られるように、彼の気分は大いに移り変わる。私は生まれつき障害のあるキャラクターも書いている。彼女はそもそも腕も手も持ったことがないし、そのことを特に苦にしているようでもない。彼女の穏やかさは久夫のほぼ正反対だ。そこが難問なんだ。琳は、そもそもそこにない腕を失っていることを、どこまで気にしているんだろう?
何かが存在しない、ということを説明するのはとても難しい。
自分のキャラクターに完全に共感できないとしたら、キャラクター同士で共感し合うことはできるのだろうか? 表向き、それはこの物語の舞台である架空の学校が存在する理由の一部でもある。あの場所に孤独はあるのだろうか? あるに違いない、と私は思う。キャラクターたちはティーンエイジャーで、そして人間である以上、世をはかなむ気持ちや、存在することの憂鬱さもあるに違いないんだ。そして、このキャラクターたちはそれを私よりももっと純粋で強烈な形で感じているんだろう、と私は想像せずにいられない。夜の山久学園の寮の静寂を思い起こしてみる。メロドラマ的に一人で憂鬱な気分になるには絶好の時間だ。月明かりが寮の部屋と、暗い物思いや不眠に苦しんでいるその住人を照らす。隣の部屋では別の生徒が同じ月を見て、多分同じようなことを考えている。その隣の部屋では、また別の生徒が。百の小さな部屋に、百のちっぽけな人間たち。みんなつながっていて、それでいて離ればなれ。こういう考えを持っている時点で、私はすでにロープから落ちてしまっているんじゃないか、そして本当はそもそもロープなんてなかったんじゃないか、という気もする。障害なんてものはないのかもしれない。これはすべて、人生における苦難と、私たちがいずれ経験することになる孤独感をあらわす壮大なメタファーでしかないのかもしれない。
「ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、僕らはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手をのばして定められた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として――場合によってはとても手際よく。そう考えると僕はひどくうつろな気分になった。」
(訳注:「スプートニクの恋人」村上春樹 より)
--Aura
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