2011年3月1日火曜日

あなたの子供はあなたのものではない



それなりに有名なある作家が書いた、ファンフィクション(二次創作の小説)とは極悪非道なものである、というとても奇妙な罵詈雑言を見かけた。幾度か対処の必要に迫られた著作権関連の問題を除けば、私はこれまでファンによる創作のことをあまり真剣に考えたことはなかった。しばらく考えた後、これは実は何とも奇妙な現象だということに気がついた。まあ、そもそもファンが付いているという現象だって奇妙なんだけど。

KSがこれほど有名であることに、私は何と言うか戸惑いを感じている。(ほかの開発者たちもだ)居心地の悪さから -- ともすると無思慮に -- その戸惑いを正直に表に出してしまうことがある。これは秘密でも何でもない。でも事実は残る。私が作った作品のファンについて私がどう思うか、なんてことについて思いを巡らすことがあるなんて、全くもってこれっぽっちも考えやしなかった。私は自分自身、何のファンだとも思っていないし、そういう現象そのものが遠いもののように感じていた。しかし受け側に立つというのは実に奇妙なものだ。こういうことを大っぴらに話すのは賢明ではないと言った。私たちの多くは愚かさに対して非常に厳しいことで有名なこともあって、こうした主張が容易にファン嫌いと解釈されてしまうからだ。(そんな事実はない。私は4LSの誰よりもファンが好きだ。少なくとも週末は。)

とにかく、ホッブはどうやら自著のファンフィクションの存在にひどく傷ついている(いた、かもしれない。元の文章は5年前のものだし、すでに元の場所にも存在していない。)ようだ。理由はなんとなく察しがつくが、彼女の立ち位置には正直まるで賛同できない。それにこの文章で彼女が主張している内容はなんだか都合のよい議論に見える。ファン創作には長所も -- より深くファンの関心を引く、創造性は常に善、etc. -- 短所も -- 確かに著作権の侵害ではある、等々 -- ある。それぞれの効果に各人がどれだけ重きを置くか、そして積み重なった結果が正味でプラスになるかマイナスになるか、結局はそこに行きつくのだ。では私はファンフィクションに賛成か、反対か? おそらく私はそれを知りたいのだろう。

最初の説明には、ファンフィクションは単純に悪であり、原作者に対する侮辱だ、少なくとも大半はそうだ、とある。この主張の妥当性には疑問を抱くが、後で使うためにここで述べておきたかった。このブログ記事ではこの主張への反論として、「ファンフィクション」に分類されうる、評価の高い文学作品の膨大なリストを提示する。まあ定義は非常に広範囲なものになってしまうけど。世の中には出来のいいファンフィクションだってある。しかしファンフィクションには一般に、ある種の何となくネガティブな印象があり、それは分厚いステレオタイプに包まれているのだ。

手短な調査の結果、IRCの常連たちは一人もKSのファンフィクションを読んでいないことが判明した。(まあ一人はいるんだけど。こいつはいろんな意味で頭がひねくれているので)しかしうちのファンイラストの画像掲示板には全員が割と頻繁に訪れている。これはなぜか? 品質についての主張がここでは妥当性を持つ。一番よく引き合いに出される主張でもある。ほとんどのファンフィクションはひどい代物なのだ。しかしファンイラスト、ファンフィクション以外のフィクションを含め、他の何であっても同じことだ。ただファンフィクションはこれらに対して不利な点が二つある。ファンアートは1、2秒あれば理解できる。ファンフィクションを読むのは長い時間がかかる。文芸出版物は「出版」という品質維持のシステムがある。誰でも自分が書いたファンフィクションをfanfiction.netとかうちのフォーラムに投稿できるが、これを出版するとなると出版社の課す基準を満たさなくてはいけない。あなたが購入した書籍は、あなたが無作為に読んだファンフィクションよりも出来がよい可能性が高い。それゆえ消費者にとっては、単純な利益と損失の比較を行うことで、ファンフィクションを読むかわりに別のことをするという判断に至るわけだ。ファンイラストがファンフィクションより寛容な扱いを受ける理由のわかりやすい説明でもある。

しかしこれだけでは、ホッブ氏がここまで怒る理由、この問題について私がバカみたいに長いブログ記事を書くの説明にはならない。ホッブ氏がファンフィクションが善か悪かなんて気にしているとは思わないし、私はKSのファンフィクションを読まないので質の議論は当てはまらない。著作権の侵害だからファンフィクションは悪だ、というのはかなり弱い議論だと思う。法律は道徳の反映でしかなく、道徳を決めたり説明したりするものではない。ホッブ氏の主張を見ると、自分の精神的な所有権というものがあって、誰かが自分の設定やキャラクターを使う(盗む)ことはその権利の侵害だと言っているように見える。これは実に主観的な問題で、どれだけ創作者が自分の創作物に愛着を持っているかが、この問いに対する意見に大きく相関するだろう。創作者は自分の作品が自分の所有物であり、自分自身の個人的な一側面であり、その個人的空間を侵されるのを見ると不快感を覚えるというわけだ。見てもいいが、触ってはだめ、と。

さて最後の問いは、なぜ創作者はたとえばファンイラストよりもファンフィクションのほうを気にするのか、だ。質に関する説明はここでも失当だ。精神的所有はどちらにも同じくらいの強度で働くだろう。これは、両者の間で元ネタを変形させるという性質が違うことが原因だと思う。イラストは一般に、元コンテンツのスタイルを変形させるだけでしかない。しかしフィクションは必然的にコンテンツそのものを改変する。証拠として、deltaは偉大なる奈須きのこによって執筆された、かたわ少女のオープニングシーンの仮想バージョンというアイディアを提起した。私は最高なアイディアだと思った。彼には特徴があるし……文章のスタイルも興味深い。もしそんなものがあったらぜひ読んでみたい。ゆえに、スタイル的に改変されたファンフィクションを私は直ちにアリだと思った。イラスト対フィクションの答えはこれだ。

ホッブがまさに正鵠を射ていると思った一つの点は、ファンフィクションを書くのは文章の書き方を学ぶ方法としてはひどいものだということだ。ファンフィクションを書くことで、あなたは読者に自分の物語への興味を持ってもらうという、ストーリーテリングの最も重要な側面を飛ばしてしまうことになる。短編なら便利かも知れないし、タダで読者が付く。しかし結果として身につく習慣は非常にマズイものだし、「本物の」ライターになるための足がかりには決してならない。絵画を模写するときのように、確かにそこから学べるものはあるので、ファンフィクションを書くことが時間の無駄だとは言わない。しかし新しい家具の事を考えていても、家を建てることについて学ぶことはできない。ともかく、ファン創作を作るのは何もしないことに比べれば間違いなくずっとましなので、ぜひやってほしい。

私自身は、自分の表した言葉に精神的所有権を持っていると思っているのか? そうかもしれない。しかし私の言葉は私だけのものではない。私は物事を読み聞きし、コメントを求め、自分だけでは思いつけなかったかも知れない言葉を書き付ける方法を探し出している。構文解析を繰り返し、再考し、使い回し、参照する。他者からの影響を集め、目の前にあるライター向けの教典から使えるものを取りだしている。だから私が積極的にもらった分のお返しをするのは当然だろう。それに、私の考えていることなんてどうでもいいじゃないか?


- Aura

1 件のコメント:

  1. 今大変なことになってるけど他のことを考えたいので少し

    僕自身は二次創作はそれほど悪いものではないと思っていて、注目するに値するものだと思う。クオリティはまちまちだけど
    もちろん本作の作者が嫌がっているのを知っていてわざわざ作るのは礼儀としてどうかとも思う
    ただ、物語って人に伝わった段階で一人歩きを始めるものだから避けられないものでもある
    と、ここまではそれほど意味のある話じゃなくて
    僕が書きたいのはここから
    僕個人にはいろんな創作物に触れるにあたって二種類のものがある
    一つは閉じられた物語
    もう一つは開かれた物語
    前者は僕の頭の中で完成されたものとして受け取られて、僕がその物語に新しいものを加えたり、あるいは変えてしまうことができない
    後者はそれができ、僕はその物語やキャラクターと戯れることができる
    どの作品がどちらに分類されるかは人によっても違うだろうし、こういう区分をしているのは自分だけかもしれない
    いずれにしてもどちらが優れていると言うことはなくて
    どちらもそれぞれの面白さを持っている

    僕自身は前者の作品と出会っていくうち、後者の作品にも出会うようになって
    物語と遊ぶ楽しさが高じて自分の物語を書くようになった
    でもその自分の物語を書いていて本当にオリジナルのものがあるのだろうかと思うときがある
    なにしろ今まで触れてきた物語の影響がたくさん現れているから
    そんなことを考えると僕が書いてるものは『僕』が書いてるものじゃないのかもしれない
    そもそも存在する物語が僕の手を通して現れてるだけなんじゃないかって
    そんな視点から見れば作り手も受け手も本当に小さい存在になってしまう

    そんなとりとめのない話

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