2011年3月8日火曜日

ブログが1000000ヒット!



ブログが百万ヒットを記録した。実感してみるとちょっと恐ろしい。

ここまで読んでくれてありがとう。

- Aura

2011年3月7日月曜日

やりたいことがあるときは

どうも、deltaですよ。しばらくブログ記事を書いてなかったので、そろそろまた技術ネタを書く時期ですね。



ビジュアルノベルは、コンピュータープログラムとしてみた場合、本気で考えないといけない「機能」というのはそれほど多くない。小さな違いはあるかも知れないけど、ユーザーエクスペリエンスという点では、どれも非常によく似ている。そのこと自体は何の問題もない。そもそも最初から極端な違いなんてないからだ。「ビジュアルノベル」という言葉自体がその体験の定義になっている。実際、既存のVNエンジンを使う理由のひとつは、ビジュアルノベルという形態に期待される機能が一揃い用意されているからだ。VNはプログラムを作るのが極端に難しいわけではないけど、こんなに狭いフィールドでは車輪の再発明をする理由は少ない。だからといって、開発者が何も考えてなくても許されるわけじゃない。VNのユーザーエクスペリエンスにおける仕様の多くは、慣例的にそのようになっている。そして、慣例というのは必ずしも正しいわけじゃない。(間違ってるわけでもないけど)もし開発者がありきたりなものでは満足できないと思ったら、エンジンや慣習がどうなっていようが、やりたいようにやっていいし、そうすべきなのだ。

そうした機能のひとつが「既読テキストを読み返す手段」だ。これは何らかの形で可能になっていないといけない。そして、これにはまさに慣例が存在している。ほとんどのVNで私が目にしたのが、上下にスクロールできるリストの形でバックログを表示する方式だ。私たちが使っているエンジンであるRen'Pyは、「ロールバック」と呼ばれる別の形式を取っている。(これに対して、最初に述べた形式は「リードバック」と呼ばれる)ロールバックはインタープリタの状態をまるまる以前の時点に「巻き戻す」ことができる。これは間違いなく技術的には優れた形式で、実装するのはずっと難しい。Ren'Pyの売りのひとつでもある。読者はテキストだけではなく、文脈まで--キャラの表情、音、アニメーション、すべて込みで、画面全体を以前の状態で見ることができる。

さて、これにはひとつ問題がある。Ren'Pyの標準機能ではこの形式しかサポートされていない。そして開発者というのは選択肢を求めるものだ。これには様々な理由が考えられる。自分のゲームに「本物の日本製ゲームっぽさ」を出したいとか。物語的に、これまでとは異なる手法を使いたいとか。もっと(私にとってだけど)重要なのは、Ren'Pyはインタープリタの状態を丸ごと巻き戻す。このとき、それ以前に発生したプレイヤーの入力は選択肢の選択を含めて、すべて破棄される。ここで仕様上の判断が必要になる。リードバック/ロールバックというのは、実際には何を意味するのか? Ren'Pyは、エンジンはゲームをプレイヤーに表示するためのツールでしかなくて、できる限り選択肢を読み手に委ねる、という思想に立っている。意図的に設計された体験ではなくて、「リーダーアプリケーション」というわけだ。ロールバック支持論として頻繁に出てくるのが、「読み手はゲームのセーブ・ロードができるじゃないか、まさかそれも禁止ってことはないよな?」というものだ。私に言わせれば、これは妥当な主張とはいえない。まず、一般的なビデオゲームでゲームデザイナーが「セーブしまくり」とでも言うべき行動をできなくすることはありうる。KSではそういう制限はしていないけど、物語上の、さもなければ今までだれも考えたことがないような理由がどこかにあるかも知れない。(余談だけど、KSではセーブ・ロード機能にも手を加えている。デフォルトのRen'Pyは日本製のVNで見られる「セーブスロット」の仕組みを丸パクリしている。これ自体はバッテリーでデータを保存していたファミコンゲームの仕組みから取られたものだ。ちょっと最新とは言いがたいので、KSでは2004年頃からSourceのゲームで採用されているシステムを使っている。21世紀に生きてて良かったね。)

結論はこうだ。私はKSにおけるテキストのバックログを、主人公の記憶と考えている。そして記憶というのは不変のものだ。ロールバックをするとき、プレイヤーは「インタープリタの巻き戻し」を行っているのではなくて、プレイヤーがすでに見た光景を読み直しているのだ。これは暗黙に、選択のやり直しができないことを意味する。もちろんセーブと再ロードはできるけど、単にマウスのホイールを回すのに比べれば、セーブ・ロードはずっと意識的・意図的に行われる、重大な行為だ。

理由がどうあれ、何かが「本質的に優れている」からというだけで、ゲーム開発者が制約を受ける理由はない。カラー映画が作れるのだから、白黒の映画を作ってはいけないと言うようなものだ。ゲーム内でのプレイヤーの相互作用を制約することは、何らかの理由で、デザイン上の目的になりうる。そしてもし開発者がそのようにしたいのなら、そうできるようになっているべきだ。Ren'Pyにはロールバック以外のバックログ機能はないけど、自分で機能を作り込める程度にはオープンで柔軟だ。

KSのAct 1には私自身が設計したリードバック機能が実装されている。ロールバックもできる(あればうれしい機能には違いない)けど、選択肢まで戻るとロールバックが止まる。つまり選択肢を越えて巻き戻すことは絶対にできないようになっている。これなら一度選んだ選択肢は変えられない。ロールバックできなくなったテキストを表示したいときは、リードバックが使える。この仕組みは明らかに不完全なので、決して満足はしていなかった。自分が欲しかったのは、選択肢はやり直せないけど好きなだけ戻れるロールバックだと思った。なのでそれを実装した。

私が作ったものはちょっと複雑なので、ここで詳しく説明はしない。Ren'Pyはロールバックとは独立した「プレー一周単位」でのメモリという概念がない。これがまさに必要な機能で、問題を難しくしている理由だ、とだけ言っておこう。Ren'Pyには「ストア」(プレー一周単位のデータを保持できるが、完全にロールバックされる)と「パーシスタント」(ロールバックはされないが、インストールされたゲームについてグローバルとなる)という機能しかない。結局私は、プレーの周回が始まるたびにユニークなIDを生成してストアに保存し、このIDをパーシスタントに保存されているデータベース内のインデックスに使う、という実装をする羽目になった。実際にはそれほどややこしくはないけど、それでも自分で考えついて作り込まなくてはいけなかったのは確かだ。もしかしたら最終的にリリースされるKSには含まれないかも知れないけど、評価のためにはこれをやってみるしかなかった。自分が欲しいものについて考え、そして少なくとも実際に検証する。それがここでの教訓、そして私がこの文章を書いている理由だ。エンジンや慣習がそうなっているというだけで、最初から自分に制限をかけてしまってはいけない。それが自分以外の誰も気にしなさそうな、とても小さなことであってもだ。みんながやっているからというだけで、何かをやってはいけない。ただし、様々な相反するアプローチから、一番いいものを選ぶ用意はしておくこと。最終的には、自分で「もっといい」もの、さもなければどちらよりも適切なものを思いつけるかも知れない。

みんながそれに文句を言い出さない限りは、だけどね。そのときは振り出しに戻ってやり直しだ。

P.S. 絵についてはAuraの方が手が早かったんだけど、climaticも混ざりたいと言ってきた。なので最後まで読み終えた人へのご褒美に、彼のイラストをどうぞ。

- delta

2011年3月6日日曜日

華子ルートのディレクション完了



ひとつ、ふたつ、みっつ--華子のスクリプトとルートのディレクションが終わりました!

つまり華子のデザインについて語るときが来たということですね。

華子の絵は、他のキャラクターに比べると比較的安定していました。2008年の1月、MoekkiやKamifishと一緒にイラストチームに参加して以来、Weeeは華子のイラストレーションを担当していて、立ち絵やCGをずっと手がけてきました。上の画像でもわかるように、Weeeは開発に参加する前にも華子のスケッチを描いています。最初の開発掲示板(すでに閉鎖)上で、まだゲームのブレーンストーミングが行われていた頃のことです。彼女の活動歴はかなり長く、絵もどんどんうまくなっています。(例大祭8で発行される東方同人誌の共同イラストレーターに選ばれました! がんばれWeee!(サイト上での名義はraemzです))

RAITAのオリジナルデザインと比較すると、華子はリリーや静音の時とは違って、それほど変化はありません。Ke^4のスケッチでは、デザインに特徴を与えるために、やけどを負った側の顔を覆う前髪が一房追加され、髪の長さもより長くなりました。これ以後、このデザインが華子のデザインの基本となりました。ストッキングの色は黒に決まりました。RAITAのスケッチに沿っており、またリリーの白のストッキングと陰陽のコントラストをなすためです。

これはコントラストの追求という、華子とリリーのデザインの対比の一面を表しています。リリーと華子の性格は大きく異なっていますが、それだけではなくその容姿にも二人の対照的な生き方が色濃く反映しています。華子は身長が高めの、どこかアジア的な美少女で、長い黒髪、濃い色の服装と華奢な体型です。一方リリーはさらに背が高く、容姿も西洋的な美しさを持ち、長い金髪と色の薄い肌、そして青い目をしています。二人の感情表現、ポーズ、そして装いはすべてそれぞれの性格と生き方を反映しているのです。




というわけで、以上が華子の話でした。ようやくCrudと私が彼女のルートを書かなくて済むのでほっとしています。ディレクションを完了したDelta、お疲れさまでした。今後も琳と静音についての続報にご期待ください。

- Suriko

2011年3月5日土曜日

早すぎた郷愁

旅程は目的地よりも重要だろうか?

KSの開発を形容するために、このむしろ手垢のついた表現を使ってみた。その後、この言葉は果たして妥当なのかと思い始めた。これまでのKSは長く曲がりくねった道程だった。ゲームそのものの開発に直接関係ない多くのことを行い、そして遭遇してきた。私たちにはお絵かきBBS、ファンイラスト、副プロジェクト、私たち自身も関わりを持とうとしている活気のあるコミュニティ、さらにネットで一緒に動画を見たり、ビジュアルノベル媒体について井戸端会議をしたりする、私たち自身の内輪の集まりもある。直接KSの完成に寄与しないとして、こうした二次的なものにどのような価値を見いだすことができるだろうか? KSの開発に関係のないKS関連の活動を行うのは時間の無駄だろうか? このブログを書くことのように。

もっとも大きな副次物であるコミュニティについては、4LS自身のものとより大きなKSコミュニティともに、プロジェクトにとても大きな力を与えてくれるものだと思っている。なぜプロジェクトがいまだに死に絶えないのかと疑問に思う人は多い。それは私たちが強情だからだが、もっと重要なのは、気にしてくれている人がいるから死に絶えていないと言うことだ。コミュニティというのは大事なのだ。

究極的には、旅程と目的地は不可分だ。目的となるゲームのリリースがなければ、私たちは目的もなしに無駄に時間を過ごしているだけ、ということになる。しかしこれまでに起きた様々なことの後では、そのリリースは旅路の末の甘美なご褒美なのだ。それぞれが互いに意味を与え合っているというわけだ。

- Aura

2011年3月1日火曜日

あなたの子供はあなたのものではない



それなりに有名なある作家が書いた、ファンフィクション(二次創作の小説)とは極悪非道なものである、というとても奇妙な罵詈雑言を見かけた。幾度か対処の必要に迫られた著作権関連の問題を除けば、私はこれまでファンによる創作のことをあまり真剣に考えたことはなかった。しばらく考えた後、これは実は何とも奇妙な現象だということに気がついた。まあ、そもそもファンが付いているという現象だって奇妙なんだけど。

KSがこれほど有名であることに、私は何と言うか戸惑いを感じている。(ほかの開発者たちもだ)居心地の悪さから -- ともすると無思慮に -- その戸惑いを正直に表に出してしまうことがある。これは秘密でも何でもない。でも事実は残る。私が作った作品のファンについて私がどう思うか、なんてことについて思いを巡らすことがあるなんて、全くもってこれっぽっちも考えやしなかった。私は自分自身、何のファンだとも思っていないし、そういう現象そのものが遠いもののように感じていた。しかし受け側に立つというのは実に奇妙なものだ。こういうことを大っぴらに話すのは賢明ではないと言った。私たちの多くは愚かさに対して非常に厳しいことで有名なこともあって、こうした主張が容易にファン嫌いと解釈されてしまうからだ。(そんな事実はない。私は4LSの誰よりもファンが好きだ。少なくとも週末は。)

とにかく、ホッブはどうやら自著のファンフィクションの存在にひどく傷ついている(いた、かもしれない。元の文章は5年前のものだし、すでに元の場所にも存在していない。)ようだ。理由はなんとなく察しがつくが、彼女の立ち位置には正直まるで賛同できない。それにこの文章で彼女が主張している内容はなんだか都合のよい議論に見える。ファン創作には長所も -- より深くファンの関心を引く、創造性は常に善、etc. -- 短所も -- 確かに著作権の侵害ではある、等々 -- ある。それぞれの効果に各人がどれだけ重きを置くか、そして積み重なった結果が正味でプラスになるかマイナスになるか、結局はそこに行きつくのだ。では私はファンフィクションに賛成か、反対か? おそらく私はそれを知りたいのだろう。

最初の説明には、ファンフィクションは単純に悪であり、原作者に対する侮辱だ、少なくとも大半はそうだ、とある。この主張の妥当性には疑問を抱くが、後で使うためにここで述べておきたかった。このブログ記事ではこの主張への反論として、「ファンフィクション」に分類されうる、評価の高い文学作品の膨大なリストを提示する。まあ定義は非常に広範囲なものになってしまうけど。世の中には出来のいいファンフィクションだってある。しかしファンフィクションには一般に、ある種の何となくネガティブな印象があり、それは分厚いステレオタイプに包まれているのだ。

手短な調査の結果、IRCの常連たちは一人もKSのファンフィクションを読んでいないことが判明した。(まあ一人はいるんだけど。こいつはいろんな意味で頭がひねくれているので)しかしうちのファンイラストの画像掲示板には全員が割と頻繁に訪れている。これはなぜか? 品質についての主張がここでは妥当性を持つ。一番よく引き合いに出される主張でもある。ほとんどのファンフィクションはひどい代物なのだ。しかしファンイラスト、ファンフィクション以外のフィクションを含め、他の何であっても同じことだ。ただファンフィクションはこれらに対して不利な点が二つある。ファンアートは1、2秒あれば理解できる。ファンフィクションを読むのは長い時間がかかる。文芸出版物は「出版」という品質維持のシステムがある。誰でも自分が書いたファンフィクションをfanfiction.netとかうちのフォーラムに投稿できるが、これを出版するとなると出版社の課す基準を満たさなくてはいけない。あなたが購入した書籍は、あなたが無作為に読んだファンフィクションよりも出来がよい可能性が高い。それゆえ消費者にとっては、単純な利益と損失の比較を行うことで、ファンフィクションを読むかわりに別のことをするという判断に至るわけだ。ファンイラストがファンフィクションより寛容な扱いを受ける理由のわかりやすい説明でもある。

しかしこれだけでは、ホッブ氏がここまで怒る理由、この問題について私がバカみたいに長いブログ記事を書くの説明にはならない。ホッブ氏がファンフィクションが善か悪かなんて気にしているとは思わないし、私はKSのファンフィクションを読まないので質の議論は当てはまらない。著作権の侵害だからファンフィクションは悪だ、というのはかなり弱い議論だと思う。法律は道徳の反映でしかなく、道徳を決めたり説明したりするものではない。ホッブ氏の主張を見ると、自分の精神的な所有権というものがあって、誰かが自分の設定やキャラクターを使う(盗む)ことはその権利の侵害だと言っているように見える。これは実に主観的な問題で、どれだけ創作者が自分の創作物に愛着を持っているかが、この問いに対する意見に大きく相関するだろう。創作者は自分の作品が自分の所有物であり、自分自身の個人的な一側面であり、その個人的空間を侵されるのを見ると不快感を覚えるというわけだ。見てもいいが、触ってはだめ、と。

さて最後の問いは、なぜ創作者はたとえばファンイラストよりもファンフィクションのほうを気にするのか、だ。質に関する説明はここでも失当だ。精神的所有はどちらにも同じくらいの強度で働くだろう。これは、両者の間で元ネタを変形させるという性質が違うことが原因だと思う。イラストは一般に、元コンテンツのスタイルを変形させるだけでしかない。しかしフィクションは必然的にコンテンツそのものを改変する。証拠として、deltaは偉大なる奈須きのこによって執筆された、かたわ少女のオープニングシーンの仮想バージョンというアイディアを提起した。私は最高なアイディアだと思った。彼には特徴があるし……文章のスタイルも興味深い。もしそんなものがあったらぜひ読んでみたい。ゆえに、スタイル的に改変されたファンフィクションを私は直ちにアリだと思った。イラスト対フィクションの答えはこれだ。

ホッブがまさに正鵠を射ていると思った一つの点は、ファンフィクションを書くのは文章の書き方を学ぶ方法としてはひどいものだということだ。ファンフィクションを書くことで、あなたは読者に自分の物語への興味を持ってもらうという、ストーリーテリングの最も重要な側面を飛ばしてしまうことになる。短編なら便利かも知れないし、タダで読者が付く。しかし結果として身につく習慣は非常にマズイものだし、「本物の」ライターになるための足がかりには決してならない。絵画を模写するときのように、確かにそこから学べるものはあるので、ファンフィクションを書くことが時間の無駄だとは言わない。しかし新しい家具の事を考えていても、家を建てることについて学ぶことはできない。ともかく、ファン創作を作るのは何もしないことに比べれば間違いなくずっとましなので、ぜひやってほしい。

私自身は、自分の表した言葉に精神的所有権を持っていると思っているのか? そうかもしれない。しかし私の言葉は私だけのものではない。私は物事を読み聞きし、コメントを求め、自分だけでは思いつけなかったかも知れない言葉を書き付ける方法を探し出している。構文解析を繰り返し、再考し、使い回し、参照する。他者からの影響を集め、目の前にあるライター向けの教典から使えるものを取りだしている。だから私が積極的にもらった分のお返しをするのは当然だろう。それに、私の考えていることなんてどうでもいいじゃないか?


- Aura

釣りネタを見たらこの記事を読むこと

誰かがうちのIRCにやってきて、自称4LSのメンバーがKSの「小ネタ」を書き込んでる4chanのスレへのリンクを貼って、この質疑応答をしてるのは本当にあなたたちかと聞いてくるのはこれで2度目なので、今後の参考のために先手を打ってリプライしておこうと思う。

KSのゲームそのものやプロジェクトについての発言を裏付けなく信じる人は、特に4chanのような場所では、巧妙なネタに釣られても仕方ないでしょう。私たちは自分たちのブログ・フォーラム・IRCの外でKSや4LSの話をすることはありません。