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「さぁ、みんな用意はいい?」
普段なら、何もない屋上に私の声が響く。でも今日は ――この2週間に一度の催しがある日は―― 望遠鏡やカメラ、スープやコーヒーの入った水筒の用意に忙しくしている、この6人の生徒の耳に届く。
いっせいに同意の声が周りの生徒たちから上がったが、みんなまだ、それぞれの作業に気をとられていた。ほんの数ヶ月前は、周りで様子を見ていると言うよりは手伝ってばかりだったが、今では私が手伝わなくても、彼ら自身で完璧にことをこなしているのだ。
静かだが冷たいそよ風が、夜が深まるにつれて寒さが増していくことを思わせた。私はポケットから使い慣れたカードボックスと銀のライターをさっと引き抜いた。ボックスから煙草を押し出すと、口の先に咥えたままライターの蓋をはじき、先端に火をかざした。数年の合間に、この仕草がすっかり癖となっている。
空気が風でだるそうに揺らめくと、唇から細く登る煙がそれに合わせて揺れる。私はもう一度生徒たちを見回す。
集まった天文部の生徒の一団の中には、3年3組から潜り込んできたものもいる。写真部員でもあるミサキは、夜空を写真に収めるために、この観測会への参加を希望した。反対する理由もなく私は彼女の参加を承諾した。それで今彼女は、ほかのみんなと少し離れたところでカメラを三脚に取り付けている。
アキコはいつものように、望遠鏡を誰よりも先に覗かせてもらえるよう触れ回っている。彼女は半身マヒで体が弱いが、驚くほど誠実で素直な人柄だ。実際そのおかげで、彼女はケイからも慕われている。ケイはいつにもまして、一言も発することなく彼女の世話をしている。2人とも(特にケイはそうだが)本当に熱心で思いやりがあるようで、入学したときからずっと天文部の一員だ。
マサトとサユリは、望遠鏡を覗く番を待つ間おしゃべりをしながら、てんでにスープやコーヒーをすすっている。体つきがよく、健康そのものなマサトは、その連れを除けば、誰に対しても堂々としている。そのスポーツ狩りの頭と習慣のように帽子を被っている姿を加えると、むしろ陸上部のほうが合っているようにも見える。でも、その評価は大きな誤りだ。彼はスポーツよりも学問的なことに興味を抱いているのだ。そして単に自分の健康に最大限気を使っているだけのことだ。
サユリは単純に、女版マサトとでも言える。彼女もまた、体格が良く、マサトと日々の運動をしている姿がよく見られる。
2人の性格は際立って似ているとはいえ、彼らの無感動な生活態度は、すぐ何をするにもやる気がないなどと誤解される。私は最初、彼らはもっと恋愛関係にあるのかと思っていたが、彼らはお互いを恋愛対象ではなく兄弟姉妹、あるいは単に兄弟とみなしているようだ。
この2人は今年天文部に入ったばかりだが、私が期待していたような新入部員とはちょっと違っていた。彼らのような生徒が入ってくることは全く予想していなかった、というと嘘になるだろう。
集まった生徒の最後の一人は、ドアの近くのパイプの上に一人で腰掛けている少女で、毎回この観測会に来ている。平均的な背丈に、長く黒い髪、そして柔らかな表情で、静かに座りっていて、身じろぎ一つしない。この子は今日、望遠鏡をのぞき込むことはしない。これまで一度も使ったことがない。
アオイはいつも私に謎めいた何かを投げかける。私は彼女のクラス、3年2組を教えているが、彼女は必要以上の注意を向けられることを上手く避けている。ある日彼女が授業のあとに私のところに来て、私が顧問を務める天文部に入れないかと尋ねてくるまでは。
今はもう、みんなそれぞれの活動に落ち着いている。そこで最後の煙を一吐きして、私はアオイのもとへ行く。
アオイは目の見える人よりもはるかに耳がいい。私のクラスの生徒、つまり盲や弱視の生徒にも同じことが言える。
彼女は静かな夜の空気から簡単に私の足音を聞き取り、その顔を私がいると思う場所へ正確に向けてくる。
私は彼女の傍らに腰を下ろすと、後ろに寄りかかる。しばらく立ちっぱなしだったので、ようやく休憩ができて気分がいい。旨い煙草を手にして座り、満天の星空を見上げる。周りの空気は冷えているが、寒すぎることもなく、かすかな湿気も感じられる……すばらしい気分だ。
時間が経つと、私はあることに気づき、すばやく煙草を口から離した。
「ああ、ごめんなさい」 私は意気消沈して言う。 「煙草の煙、におったでしょ?」
驚いたことにアオイはかぶりを振った。
「いえ、気にしてませんよ、ミヤギ先生。どうぞ吸ってください」
他に何も言わず、煙草はもとのあるべき場所に、唇の間に戻った。
「目の見えない子は臭いを嫌うものだから、あなたがそうでなくてちょっと驚いたわ」
「私にとっては……落ち着く匂いなんです」
「まさかあなた、吸ったりしてないでしょうね?」
「ええ、もちろん」 即答して、頭を振りながら強調した。「私じゃありません。父が同じ銘柄を吸っていたんです」
「あら? なんの銘柄だったかしら?」
「ラッキーストライクですよね」
「ちぇっ」
尻尾をつかめると思ったのだが。このくらいにしておこう。話していると、ミサキがイラついたように頭をかきながら、カメラに手を焼いているのに気づく。
「カワナさん、大丈夫? 何かあったみたいだけど」
「調節してるだけですよ! 気にしないでください」
「分かったわ」
私は不快な煙を吐き出すと、もう一度後ろに寄りかかった。手を差し伸べようとしても、彼らは私を必要としていない。人生そんなもんね。
「今年は人があまり入りませんでしたね。天文部がそれでも続いていくなんて驚きです」
「まあね、この学園に天文部があるのはちょっとした伝統みたいなものよ。天文部ができたのは学校が創立したときまで遡るのよ。文芸部と同じくらい替わりがないし、もし私が顧問をしていなくても、武藤先生が飛び込んできて、どっちみち存続させたと思うわ」
「正直に言うと、武藤先生のほうが天文部にはあっていると思います。あの人、化学の先生だし、やっぱり、英語の先生よりは」
「あの人とは一度顧問の座をかけてやりあったのよ。本当よ?」
「それで、勝ったんですか?」
「まあ今は私が顧問をしているから、そうなんでしょうね。私はいざとなったら自分のやりたいようにやるたちだから」
「じゃあ、どうしてそこまでやりあおうと思ったんですか? 何か天文学に思い入れがあったんでしょうね」
私は煙草を口から離すと、夜空にかざした。
「だって、星って煙草の先の火みたいだと思わない?」
「なんだか、先生なら絶対そう言うと思いましたよ」
「ちょっと、それが教師に言うこと?」
私は彼女の後ろ頭を小突くと、彼女はいたずらっぽくクスクスと笑い、笑みを浮かべた。彼女は何事にも快活なタイプでなかったので、私はそれを個人的な勝ちということにしておいた。
「先生だって、それが生徒の扱い方ですか?」
それからしばらく、私たちは無言で座っていた。私が星空を見上げているあいだ、彼女はほかの生徒たちに耳を傾けている。
「天体観測って、私の家族の伝統みたいなものなの。祖父も同じように星を見てた。父も。そして今は私も」
「周りの子供がみんな、一寸法師とか桃太郎を読んでいたころ、私はウミヘビ座とかやぎ座にまつわる神話を見聞きしたものよ。父と私は夜になると、いつも家の近くの丘で望遠鏡を覗いたわ。それで、父は子供のころテレビで見た、人類最初の月面着陸のことを話してくれた」
「でもこれは趣味にしておきたかったから、天文学者とか天体物理学者にはならないことにしたけどね。
そうすることで私なりに星を見るのを趣味としていられる。ほかの人と体験を共有できる」
「天体観測って先生にとって特別なことなんですね」彼女がやけに真面目に言うので、私はやや呆気にとられた。
「まあね。そのことには感謝もしてるわ」
「北極星とかポルックス(訳注、双子座の恒星)みたいな星、オリオン座とか小熊座みたいな星座、それにまつわるすべての神話……みんな私にとっては家宝よ。いつか、私の子供たちにも語り継ぎたいものね」
私ははにかんで、夢想から目を醒まそうと含み笑いする。「ふふ、なんか感傷的だったかもね」
「いいことですよ。そういう大切なものをもっているって」
「それで、あなたはどうなの? 目の見えない子が天体観測に興味があるとは思ってなかったけど」
「星を見ること自体が目的ではないんです。ただ……この雰囲気を楽しみたいんです」
「え?」
「私は夜が好きなんです。生き物の静かな声と、空気の匂い、かすかな湿気……落ち着きます。他の誰かと一緒ならなおさら」
「へぇ……」
「どうかしました?」
「私、あなたをシャイなタイプだって思ってた。教室だといつも静かで、他の子ともそんなに話さないし。でも無愛想な訳じゃない。いつも会話の輪とか集まりの縁にいて、中を覗いてる」
「私はただ他の人がそこにいるのを楽しんでるんです。変ですか?」
私は少し考えた。そういう子を知ったのは彼女が最初じゃない。だから変ではないだろう。私の答えは、私が思ったように簡単なものだった。
「全然」
私たちの会話は途切れ、お互いへの疑問は解決したが、他の子たちのおしゃべりは続いている。それから長いあいだ、私たちは隣りあって座り、ただただ夜の静寂を楽しむ。その間、夜空は私たちをずっと見守っている。
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